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【ハプスブルクとヨーロッパ】第11回
そろそろマンネリ化してきたことなど、微塵も気にしないシリーズ
「ハプスブルクとヨーロッパ」、今回はメッテルニヒについてお届けします。



【再建しなくちゃ】

ナポレオンにぼろくそに踏みにじられたハプスブルクですが、
それもロシアの活躍(というよりナポレオンの自爆)で、
もとどおりになりました。

ここで頭角をあらわしてくるのが、オーストリア帝国宰相「メッテルニヒ」です。
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クレメンス・メッテルニヒ
(1773- 1859)

彼はヨーロッパの平和会議を開き、これからの方針を決めることにしました。

これがウィーン会議(1814-1815)です。
200以上の国から領主や国王が集まりました。
イギリス・フランス・プロイセン・ロシア・デンマーク・・・・

ハプスブルク家は一気に大赤字になりましたが、
国の景気が良くなったので帳消し。
メッテルニヒはこういう外交と金勘定が得意な人物だったのです。

ところが、世界最初の大規模国際会議では・・・
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「会議とかいいから、とりあえず遊ぼうぜ」


各国代表は、朝はフェスティバル、昼は狩猟、美術鑑賞、観劇、夜はパレード、舞踏会、コンサート。もっと夜になると大人の時間(笑)。

誰が敵で誰が味方かはっきりしないから、根回しをやる時間を稼いでいたのですが、会議は伸びに伸びさっぱり話がまとまらない。

有名な「会議は踊る」ってやつです。

そのときです!!

      オーストリア
     メッテルニヒ
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   ロシア        プロイセン    イギリス   フランス
アレクサンドル1世  ウィルヘルム3世 カルスレー  タレーラン
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な、なんだってー!!
↑ここでこれを使わず、いつ使う。

あわてて各国は調印。
連合軍は必死に戦い、ワーテルローの戦いでなんとか勝利します。

これ以降、メッテルニヒの外交が実り、ヨーロッパは30年間の平和を
手に入れるのですが・・・

しかし、この均衡はあくまで大国のためのものであり、
これらの属国などは、この後長く搾取を受け続けるわけです。
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【ナポレオン以降のウィーン体制。強国がまとまっていく】




【ウィーン革命まで】

ここから先、メッテルニヒのオーストリアは、警察国家の時代になりました。
言論弾圧、管理主義。ぐっと昔に戻そう、みたいな発想があったのです。

マリア・テレジアとその息子たちによって情熱をもってなされた改革は、
メッテルニヒ体制のもとで、完全に保守化してしまいました。

この時代は「ビーダーマイア」と呼ばれます。

ビーダーマイアさんは小説の登場人物なんですが、
愚直で、俗物、自主性の無い小市民という、ともかく面白くない人。

シンプルな家具を置いた居心地のいい家で、家族と団欒する、という、
そういう生活がよしとされました。

ナポレオン時代の作曲家といえば、重厚・荘厳なベートーベンですが、
ビーダーマイア時代の作曲家といえば、落ち着きのあるシューベルトです。

またこのころ、ウィンナ・ワルツも隆盛を誇りました。
あの毎年、正月にやってるヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」とかです。

たぶんほとんどの人が知ってるんじゃないかな。

下はビーダーマイア時代の典型的な詩と絵です。

   人生の過ごし方

   いつか君に許される時が来たら、そういう境遇を作ってみ給え、
   君にとって人生とは一つの散歩に他ならないようにするのだ。
   あちこち眺め、あれこれ集め、ちょっとばかりワインを飲み、
   途中でいろんな気のきいた知り合いも作り、
   晩方には澄み切った気持ちでふたたび自分に帰り、
   そうして、天国へ、広々とした天国へ、眠りながら入って行く。
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どちらもシュピッツヴェーグ作。オーストリアの隣国バイエルンの人です。
こういう、なんというか、退廃的~な雰囲気だったんですな。


【ウィーン革命】

1830年になると、オーストリアでもイギリスとかよりちょっと遅れて
産業革命が始まります。工場が登場し、造船技術なども発達しました。
いよいよ近代の幕開けです。

その中でも継続していたメッテルニヒ体制ですが、
隣国フランスで1848年に2月革命が起きると、その余波で、
ウィーンの学生と労働者もいっせいに蜂起しました。

ところが、この革命で労働者たちが熱心に襲撃したのは、王宮ではなく、工場でした。
自分たちの仕事を奪う機械を壊しにかかったのです。

学生は学生で、ほとんど無目的に暴れているだけ。
知ってることしか学校で習わないので、ストレスがたまっていたようです。

・・・・・革命なのか、それは。

議会までたどり着いた一団は、何をすればよいのかよくわからず、ぼーっとしています。
気まずい雰囲気が漂ってきたとき、ようやく誰かが演説を始めました。
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なんだか気の毒になってきた議員たちも
「わかった、わかった」的なムードで、要求を認めます。

むしろ王家のほうがよろこんだ。ガチガチ保守派のメッテルニヒが
キライだったみたいです。メッテルニヒは失脚し、ロンドンへ亡命します。

しかし、これに続くハンガリー・チェコでも差別的待遇を受けていた市民が蜂起。
ハプスブルク家は軍隊を出し、勝ったり負けたりの戦いが続きます。

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何がきっかけになるかわからんもんですな。
この中、イタリアがほとんどドサクサ紛れに独立(1861年)
オーストリア・フランス連合軍は統一イタリアに敗北します。



【大ドイツか? 小ドイツか?】

さて、この革命闘争が一段落したころ、
「そろそろいいかげんドイツをまとめないか」という
動きが出てきます。

なんせ神聖ローマが倒れてから、あそこらへんはもうごった煮状態。
となると、そのトップに誰がなるか。これはもう二択です。

ハプスブルク家・オーストリアか?

ホーエンツォレルン家・プロイセンか?


オーストリアはウィーンを首都とした超多民族国家「大ドイツ主義」を主張します。
プロイセンはオーストリア抜きの「小ドイツ主義」を主張します。

マリア・テレジアの時以来の確執に決着をつけるときが来ました。
普墺戦争の始まりです。1866年。

プロイセンのトップは、無く子も黙る鉄血宰相ビスマルク。
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オットー・フォン・ビスマルク
1815年 – 1898年


ここでちょっと、ビスマルクの思想を紹介しましょう。

常備軍と官僚の完成形を作ったと評価されるビスマルクですが、
彼の功績はむしろ、以下のような外交方針にありました。

・強国、フランスとロシアとオーストリアとに、絶対挟み撃ちされてはならない。

以前、強国フランスがオーストリアとスペインにはさまれたときに、
ボコボコにされた、という話を覚えているでしょうか。

イギリスを除くヨーロッパでは、ともかく「はさまれない」ことが重要です。
逆に「はさむ」ことで勝利が近づくのです。

オセロみたいなもんだ。
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それ、オセロじゃねえよ・・・





うるせえな。

さて、それでは、プロイセンが、フランスとロシアに挟まれないためには?
大ドイツ主義では、絶対に警戒されます。

ただでさえ強いプロイセンに、豊かなオーストリアまでついてしまっては、
ロシアとフランスは絶対に手を組むでしょう。

かといって、オーストリアがフランスやロシアと結びついてもまずい。
ここは、オーストリアを徹底的にやっつけ、
その後すばやくフランス・ロシアの対策を練る。

つまり!
プロシアはこのオーストリア戦に全てをかける!


これがビスマルクの思想です。

ビスマルクには自信がありました。その理由は・・・

1.金属製薬莢と無煙火薬の開発によって、撃針銃と呼ばれる
  後装式小銃を用意した。これはオーストリアの銃の三倍の速度で射撃ができる。
2.名将モルトケに指揮を任せた。彼はデンマーク戦で活躍しており、
  鉄道と電信というニュー・テクノロジーを使える、先進的な将軍です。

今も昔も技術のドイツです。

こんなの相手にして勝ち目はない。
ただでさえ、大して強くないオーストリア帝国は、
ケーニヒグレーツの戦いでさんざんに敗北してしまいました。

プロイセンの死者9000に対して、オーストリアは44000人が殺されたのです。

こうして小ドイツ主義は完成、さらにプロイセンはフランスとの戦争(普仏戦争)にも勝利。
神聖ローマ帝国(第1帝国)に次ぐドイツ帝国(第2帝国)を作りました。

オーストリアの大ドイツ主義の完敗です。
しかし、よく負けるよなぁ、この国。

ともかく、メッテルニヒが構想していた
・オーストリアは再び、ドイツ諸国の指導者に戻る。
・フランス・オーストリア・ロシアという三すくみ状態に戻す。

というもくろみは、これで完全に消えうせてしまいました。

強大なフランス・ロシアに加えて、ドイツ・イタリアという国まで生まれ、
多民族国家オーストリアには、新たな方針が必要になったのです。


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次回はちょっと休憩を兼ねて、海事技術の話だぜ。
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by neo_logic | 2008-09-14 21:55 | ハプスブルクとヨーロッパ
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