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by neo_logic
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【ハプスブルクとヨーロッパ】第12回
えー、前回会話形式をやってみて
これは盛大に面倒だ
という事が判明したので二度とやらないことにしました。
ついでに少し更新のペースを落としますが、続けるは続けます。ご勘弁を。



【悩みどころは】

イタリアは独立するわ統一ドイツから弾かれるわ、
踏んだり蹴ったりなハプスブルク家ですが、
ともかくまだ生き残ってはいます。

で、1870年ころになるわけですが、
このころ、オーストリア帝国はヨーロッパでも奇妙な位置にいました。

というのは、このころ、ヨーロッパでは「民族自決」つー
考え方が広がっていったのです。

アングロ=サクソン人のイギリス
ラテン民族のフランス
ゲルマン民族のドイツ
スラブ民族のロシア


みたいな、一つの民族が、国という単位でまとまるべきという考え方ですね。

じゃあオーストリア帝国も
ナントカ民族のオーストリアとか、そんなノリで行けるんでしょうか。

ダメ、絶対。
できるわけがありません。
なぜか。この時期のオーストリア帝国の民族構成を見よ。

ドイツ人:23%
ハンガリー人:20%
チェコ・スロヴァキア人:16.4%
クロアチア人・セルビア人:10.3%
ポーランド人10%
ウクライナ人:7.9%
ルーマニア人:6.4%

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「なんでこんなに多いんだ・・・」


しかもこいつら、それぞれ言葉が違う。
こんな国で「ドイツ人のオーストリア」とか言ったら、他から袋叩きです。
1/3もいないんですから。

じゃあもう、オーストリア帝国は、みんなバラバラになる時期なのか?
それもまた無理です。

ばらばらになると同時に、それぞれがドイツやロシアに攻め込まれて、
あっという間に奴隷になってしまいます。

これはまずい。ていうかもうダメじゃね?

ところが、ハプスブルク家は
どれか一民族に支配させるという選択肢も、
バラバラになるという選択肢も、
選びませんでした。



【目指したものは】

じゃあどうしたか。

なんとハプスブルク家は、
「いろんな民族が集まった状態で、絶妙なバランスを保ちつつ維持する」
という方針を取ったのです。

ちょっと聞いて、これが難しそうだなってのはすぐにわかるでしょう。
たとえば我らが日本。
ここでは明治期前後ですら、日本人の血統が90%以上を超えています。

南北朝鮮人・アイヌ人・琉球人などがこれに次いで多いのですが、
彼らは明治期以降、どんどん混血が進んでいく。
そのうえ、かなりの人数が日本語を話すことができます。

これ重要ですよ。一つの国の人が全部同じ言葉を喋るってのは、
政治や経済、教育、軍事全てにおいて、すげぇ楽なのです。

しかしながら、四方八方敵だらけ、自分の民族は少ないっつー
オーストリアでは、それは無理だ。

そう主張したのはパラツキーさんです。
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フランティシェク・パラツキー
František Palacký
(1798 - 1876)


オーストリア史において、マリア・テレジアとカール5世と
同じくらいに重要な人だと思います。

この人は残念ながら学校の教科書にはでてきません。
ですが、この人の考え方がすごく重要なのです。
学校教育でこういう人を取り上げない文科省は、猛省するべきです。

パラツキーさんは言いました。
「ドイツもロシアも南スラブも、どれも強敵だ。
俺たち少数派は、少数派どうしでまとまろう。
そして、そのまとめ役をハプスブルク家にやってもらうんだ」


こんなアイデアは、当時の機運からすると考えられないことです。

だって当時は戦争ばっかりやってたんです。
そんな時に団結する時、当てになるのは文化が共通してるヤツです。
ノリが一緒のヤツです。

ノリが悪いやつを合コンに誘いますか?
普通はしませんね。だって、目的に合致しない人材なんだから。

しかしパラツキーは「誰だろうが、とりあえず集まって協力しよう」
言いました。

この考えは残念ながら、直接採用はされなかったのですが、
ここから150年後の現在。
ヨーロッパはたしかにこの考えを取り入れているのです。

世界最強のアメリカと、躍進するアジア諸国に対抗するために、
EUという形で!



【しかし現実は】

というわけで、ハプスブルクは多民族で行こうとしたのですが、
残念ながらハンガリーが言う事を聞きませんでした。

実は、プロイセンと戦う前に、ハンガリーは一度独立しているのです。
コシュートの指導のもと、ナショナリズムが強まっていたからです。
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結局そのときはロシアとの戦争で負けてオーストリア傘下に戻るのですが、
1867年、オーストリア帝国内部で、事実上の自治を勝ち取ります。

これ以降、オーストリア帝国は
オーストリア=ハンガリー帝国と名前を変えます。

これはアウスグライヒという政策です。
日本語に訳すると「妥協」です。

しかし、ハンガリーを認めたことで、ケチが始まります。

まずボヘミアのチェコ人が怒ります。
「ハンガリーはいいのかよ。じゃあ俺たちはどうなのよ」

ポーランドやウクライナ、スロヴァキアも、
「名前とかは対等にしなくていいから、せめて公平にやってくれ」
と言い出します。

これにはハプスブルク家は悩みに悩みました。
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どうすりゃいいんだよ


オーストリア=ハンガリー政府はそれでも、可能な限り妥協します。
実際、オーストリア=ハンガリー=ボヘミア三重帝国にまで
なりそうになりました。議会の反対でギリギリなりませんでしたが。

アウスグライヒ体制下の憲法や官僚制度、軍事制度、教育などをみると、
この当時の「何が何でも公平に。でも現実は厳しいね」
という苦難が、ありありとわかります。



それでは今日はここまで。ハンガリーの町並みを見ながらのお別れです。
ごきげんよう。
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by neo_logic | 2008-09-20 00:51 | ハプスブルクとヨーロッパ
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