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カテゴリ:ハプスブルクとヨーロッパ( 16 )
【ハプスブルクとヨーロッパ】最終回
お久し振りです。少々忙しかったのですが、
あと一歩でやめるのも心残りですからねぇ。



【宣戦布告】

さて、サラエヴォでオーストリア皇太子夫婦は殺されてしまったので、
ハプスブルクはこれを見て、セルビアへ宣戦布告です。

ところがこれを見て、ドイツもロシア・フランス・イギリスへ宣戦布告。
ハプスブルクはびっくりです。

o(゚д゚o≡o゚д゚)oえ? え?

そんなの相手にして勝てるのか?
味方は俺とトルコだぞ?

そして開戦直後、ボヘミアが離反してロシア側へ。
いきなりケチがつきました。

さらに、皇帝フランツ・ヨーゼフは86歳で死亡。
カール1世があとを継いで、なんとか休戦させようとします。

カール1世
f0075557_22181316.jpg
「こんなん勝てるわけねーよ」




【最期の戦い】

そもそもオーストリアは、南ヨーロッパで戦争を終わらせたかった。
ところが、なまじ同盟国のドイツが強いもんだから、
戦争はアジアやアメリカにまで拡大。

オーストリアは、兵器をドイツから買ってるので、
文句がつけられません。

ハプスブルク家最期の、悲愴な大あばれが始まります。

オーストリアのドイツ系、ハンガリー系、スラブ系住民は
意外にも奮戦。1915年にはポーランドを占領しました。

さらに南ではセルビア・モンテネグロも制圧。
イタリアにも侵入しました。

ところが、ドイツは中立だったアメリカにまで攻撃を開始。
たしかに、ドイツは戦争にはべらぼうに強いのですが、
とにかく敵はひたすら多い。


ハプスブルク最後の火種も、徐々に尽きていきます。
勝っても勝っても勝っても勝っても戦争が終わらない。
まるで一年戦争のホワイトベース部隊みたいです。



【戦争中盤】

状況は大体こんな感じ。紫がハプスブルク側。灰色が敵。
f0075557_22243135.jpg


強いイギリス・アメリカはドイツに任せて、
ハプスブルクの相手したメインの敵はロシア。
ロシアの軍隊はめっぽう強い。

革命中だったから戦争はしないと思ったのですが、
黒海が関わるならロシアも必死です。

ロシアは黒海がオーストリアに取られると、
他の海から船が出せないんですよ。凍るから。

そんなわけで、ハプスブルクはロシアと正面からぶん殴りあいます。
配下の盟友ハンガリーも得意の騎兵で頑張りますが、
頑張って勝てるなら苦労は無い。

相手は大砲と戦車ですよ。馬で勝てるもんですか。
戦国時代じゃないんだからさ。

そんなわけで、ロシアにがんがん負けていきます。
下の写真は捕虜になったオーストリア兵士たちです。
f0075557_2226649.jpg

まるでやる気のなさそうな感じです。

ハプスブルクは単独講和を目指しますが、時すでに遅しでした
戦争の終盤を過ぎるとオーストリアの軍部は完全にドイツの指揮下に入ってしまったからです。

戦うこともできない。
逃げることもできない。
降伏もできない。


座して死ぬのみ


1918年、連合国は大反撃に出ます。
同盟国トルコがここで降伏。

ここで、アメリカのウィルソン大統領が変な事を言い出します。

f0075557_225834100.jpg
「ハプスブルクは、いろんな民族を閉じ込めている、悪い国だ」


え、それはおかしい。ハプスブルクは独立できない小国をまとめ、
周囲の大国に抵抗していた国家だったはずです。

大体、なんで多民族が前提のアメリカに、
そんな事を言われなけりゃならんのでしょうか。


と、言いたいのですが、そんな理屈は無視されます。
ロシアの北上に、ハプスブルクは手も足も出なくなりました。

f0075557_22283387.jpg
もうだめだー




【帝国、ついに解体】

結局1918年11月、ハプスブルク家は敗北を認め、カール1世は退位しました。

帝国は完全解体し、オーストリアは共和国として再出発します。

いがみ合ったり手を組んだりしながら、長年連れ添った旧友、
ハンガリーも、ついにここで独立します。王の無い王国として。

こうして、ハプスブルク家が治めた大帝国は、
ついにヨーロッパの地図から姿を消すことになるのです。

聞こえてくるのは、次の時代の足音。
ファシズムと自由主義がやってくるのです。



【おわりに】

さて、ものすごいスピードで、オーストリア1000年の歴史を語ってまいりました。
いろいろすっ飛ばしたのが残念ですが、まあ私の根性ではこれが限界です(笑)

ハプスブルクといのは、とても奇妙な国家です。
多くの人々が複雑にからまりあいながら、大版図を維持してきたという大きな特徴があるからです

戦争では弱かったけれど、多民族の複雑な構成を維持し、
絶妙にバランスを取りながらヨーロッパの中部を維持し続けた政治は、
他の国には見られない、知恵と努力の結晶でした。

日本の学校で勉強する世界史には、
ハプスブルクの歴史は断片的にしか登場しません。

「カール五世? マリア・テレジア? パラツキー? 誰?」
というのが、今の日本人の「普通」でしょう。

「今は中欧って言うよね。昔は東欧だったけど」
と良くいわれてますが、もともとが中欧なのです。
ソビエト共産主義の時代に、一時期だけ東欧という地域ができたのです。

「ヨーロッパの大半を占領したのって、ナポレオンとヒットラーだけだよね?」
という人もいるでしょう。しかしハプスブルク家はナポレオンの500年以上前にそれをやりました。

「ヘクサゴナーレ? 中欧イニシアチブ? なにそれ?」
というのが、多くの人の反応でしょう。

ヨーロッパの小さな工業国は、今新たにヨーロッパで結束を強めています。
イギリス・ドイツ・フランスにも並ぼうと努力しています。

かつて協力しあったハプスブルクのメンバーは、
民族紛争や領土紛争を起こさずに、協力し合っているのです。
言葉も文化も見た目も違う人たちなのにです。

ハプスブルクの遺産は、以前も述べたとおり、
他民族協働・共存の模範として、EUに取り入れられています。
それは単なるノスタルジーではなく、現実的な手段となっているのです。

第二次世界大戦と東西冷戦に隠れ、
ハプスブルク家の思想は長らく凍り付いていました。

しかし今、我々はこの国から、新たに多くを
学ぶ時期が来ているのかもしれません。



【挨拶】

ご愛読ありがとうございました。
とりあえず、このシリーズはこれで終了とさせていただきます。

ノリで始めた割りに面白かったですが、正直かなりしんどかったです。
当分、この手の記事を根詰めて書くのはやめときます。
毎回5冊の参考書とWikipedia見ながら必死に書いてたのですが、
私の根性ではこれが限界です。

しかも毎回、くだらない冗談のために画像を探すのが大変で・・・




もっと勉強したい人へ・・・


今回の話は、だいたい次の本を参考にしました。
興味がある人はぜひどうぞ。

加藤雅彦「図説ハプスブルク」河出書房新社
カラー写真がたくさん載ってます。
旅行行きたい人にも、趣味で歴史を知りたい人にもお勧め。
姉妹本の「チェコとスロヴァキア」もいい本です。

菊池良生「図解雑学ハプスブルク家」ナツメ社
テーマごとにページが分かれています。勉強するにはちょっと不便。
ハプスブルク家を楽しみたい人にはお勧めです。

江村洋「ハプスブルク家」講談社
新書です。カール五世とマリア・テレジアに愛を感じる本。
文章が多い割りに読みやすいです。

G・シュタットミュラー「ハプスブルク帝国史」刀水書房
本格的に勉強したい人のための本。これを全部読んでおけば、
少なくとも私よりは詳しくなれるはず。

H・コーン「ハプスブルク帝国史入門」恒文社
どこが入門だコノヤロウ、的な、本格の専門書。
1800年以降のハプスブルクの政治について詳しい。
史料がたくさん乗ってます。

南塚信吾 編「ドナウ・ヨーロッパ史」山川出版社
地域から中欧を見ることができる本。これも専門書です。
素人にはお勧めできないが、最近の研究成果も満載です。
このシリーズを読んでいれば「ヨーロッパ史には詳しいです!」
と言えるくらいにはなれます。

そんな感じです。
また中欧に行きたいです。

それではまた。
ここまで読まれた方は、なんか一言、残していってくれると嬉しいです。
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by neo_logic | 2008-10-26 22:48 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第14回
消えたファイルはマルウェアだー
消えないファイルは新しいマルウェアだー


はい、ウィルスの脅威から立ち直りました。
誰が見てるのかしりませんが再開します。



【偉人量産中】

長らく間が開いてしまったので、復習しましょう。

1860年以降のおはなし。

ハプスブルク家が治めていた中部ヨーロッパは、
新興国ドイツに敗北して、
他民族帝国のオーストリア=ハンガリーとして再出発。
南の脅威セルビア・ロシアと対立中。

産業革命期を向かえ、近代的な都市国家を建設。
みたいな感じでしたね。

さて、この時代のハプスブルク帝国には、
すごくすごい人たちがたくさん現れました。

たぶん、どれか一人は知ってるでしょう。

f0075557_2372642.jpg
ジークムント・フロイト

1856年 - 1939年


いきなり超有名人です。文学系の大学出てて、こいつを知らないやつはもぐりだ。
「実は子供ってえっちなんだよ! 大人が勝手に天使扱いしてるんだよ!」
という、当時の道徳から考えると、かなり破天荒なことを言った人です。
f0075557_2374468.jpg

後年、あまりにも性欲中心だった理論は批判の対象となりますが、
心理学分野ではやはりこいつを勉強しないと、話が始まりません。

次は美術の人。

f0075557_23164466.jpg
グスタフ・クリムト

1862年 - 1918年


えっちな絵を描いて有名になった人です。
              こんなの↓
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この当時は、えっちなことをまじめに考えるのがタブーだった。

しかし、フロイトにしろクリムトにしろ、人間が本来持っている感覚から
目をそらすのは、ちょっと違うんじゃないの、と考えたのです。

んで、次。建築の人。

オットー・ワーグナー&アドルフ・ロース
こいつらは、
「機能的な建物は、機能美があるので格好いいのです」
と言った人ですね。過度な装飾を排除した、シンプルな建物をはやらせた。

こんなの作ったの。
f0075557_23253784.jpg


音楽の人。
アルノルト・シェーンベルク。
この人は、
「ドレミファソラシドを、全部平等な音だとして、コード無視して作曲した」
という人です。

ま、とりあえず聞いてみれ。
変な曲だねぇ。

こいつの作品は、オーストリアよりもむしろ、
前衛を好んだドイツで大絶賛された。



【おそるべきユダヤ人】

人間は人種・民族などによって優劣がつくわけではない、
というのは現代の常識。

でも本当は、やっぱりアタマのいい民族っているんじゃねーの。
とどうしても思ってしまうもの。

特にユダヤ人を見てると、こいつらやっぱなんか選ばれてねぇかなぁ、
と思ってしまう。

上であつかったシェーンベルクやフロイトはユダヤ人。

「地球は動かない」というせりふで有名な、哲学のエドムント・フッサール。

「世界は事実であることの全てである」という
何がなんだかよくわからないけどすごそうなせりふで有名な
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン

ほかにも作家では、
「人間が虫に変身した」ってので有名なカフカ。
シュニッツラー。
クラウス。

音楽家ではマーラー。
シュトラウス。
レハール。

これみんなユダヤ人。
f0075557_0464523.jpg

いいえ、事実です。


ハプスブルク帝国は多民族平等をうたっていたので、
それまで差別されてたユダヤ人にも「社会で活躍しろよ」と言った。

そしたらユダヤ人から天才が続々出てきました。

ハプスブルクとは直接関係ないけど、
アインシュタインやディズニーもユダヤ人だよなぁ。
やっぱなんか違うよ、こいつら。



【そして次の時代が来る】

さて、なんでこんなに文化人や知識人がでてきたのか。
ひとつはカフェ文化の発達です。

そして、これらの文化を維持できたのは、戦争がなかったから。

ところがこのころ、ハプスブルクは王家にあいつぐ不幸が発生。
当時の皇帝はフランツ・ヨーゼフだったのですが・・・

まず皇帝の弟がメキシコで戦死。
次に皇帝の皇太子が自殺。
王妃までテロリストに殺された。


平和で文化的な、民族平等をめざしたフランツ・ヨーゼフは
国民に愛された皇帝でした。それなのにこれでは、いくらなんでもやってられません。

f0075557_05144.jpg
「俺なんも悪いことしてねぇよ! もうグレた!」


やけっぱちになったのか、ヨーゼフは、
当時ちょっかいを出していたバルカン半島へ進出。

ロシア&セルビアのスラブ人コンビが、これを見てカチンと来ます

逆に、スラブ人が嫌いなトルコがこれを見て大喜び。

さらに、ドイツがこれを見て、
「じゃあドイツ→オーストリア=ハンガリー→トルコ
路線をつっぱしって、インドまで分捕ろうぜ!」


とか言い出します。
インドはイギリスの植民地。イギリスもカチンときます



【一触即発】

結局、状況はこんな感じになる。

ドイツ                      ロシア
オーストリア=ハンガリー    VS     セルビア
トルコ                      イギリス


しかしちょっと待ってほしい。
なんだか左より右のほうが強そうではないだろうか。

ドイツはともかく、戦争が不得意なオーストリアに、弱体化したトルコ。
相手は世界を植民地にしていたイギリスに、戦争が大好きなロシア&セルビア。

言ってしまえば、さいたま&川越&越谷が、
東京&大阪&名古屋にケンカを売るようなもんだ。


ところがこれを見て、フランスまで強い方に味方した。


ドイツ                      ロシア
オーストリア=ハンガリー    VS     セルビア
トルコ                      イギリス
                          フランス


なんだか絶望的な状況である。

言ってしまえば、さいたま&川越&越谷が、
東京&大阪&名古屋&北九州にケンカを売るようなもんです。


だから南進なんてやめときゃよかったのに。

そして、フランツ・ヨーゼフの後継者である、フェルディナンド大公が、
占領した南スラヴのサラエヴォへ行った時のこと。

大公夫婦は、ミリャツカ川にそってオープン・カーを走らせていました。

f0075557_056427.jpg
ミリャツカ川


この日は1914年6月28日。
1389年にセルビアがトルコに負けたという、屈辱の記念日でもありました。
スラブ人たちは、苦々しい表情でこの皇太子を見つめていました。

大公夫婦はサラエヴォを巡視した後、パーティに出席する予定でした。

しかし彼らを待っていたのは、歓迎のクラッカーではなく、
ブローニングM1910半自動ピストルにこめられた、数発の弾丸だったのです。

f0075557_0353538.jpg
「死ね! オーストリアの犬め!」

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by neo_logic | 2008-10-05 01:02 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第13回
縁起でもない13回目おめでとう。
前回はアウスグライヒ体制という内政について紹介しましたが、
今回はこの多民族国家オーストリア=ハンガリー二重帝国の
対外政策と、ウィーン大改造を見てみましょう。



【周りを見渡すと】

さて、このころのハプスブルクは四方八方を
いろんな国に囲まれました。そして、ほとんど敵対しています。

北はプロイセンに取られました。
西には強国フランスがいます。
東にも強国ロシアがいます。
南西のイタリアは独立してしまいました。
そして、南東にはバルカン半島があります。

地図を見てみましょう。この時代はこんな感じ。
f0075557_22105241.gif

このバルカン半島をにょろっと見てみましょう。
オーストリア=ハンガリーの南東一帯です。

・セルビア
・ルーマニア
・ブルガリア
・ギリシャ

なんかがいますね。

こいつらはどういうヤツか。もともとオスマントルコに取られていたので、
宗教が、正教、カトリック、イスラームとかいろいろ混ざっているのが特徴です。
民族的には相対的にはスラブ人が多い。ロシアと一緒です。

「じゃあロシアだよな」
というジャイアンみたいな思想で、ロシアがトルコを攻撃します。

こいつらしょっちゅう小競り合いしていて、これで大きいのは5回目です。
1877年の露土戦争では、ロシアが勝ちました。

オーストリアはこれを見てぎょっとする。
弱体化していたトルコならともかく、強いロシアに南はふさがれたくない。

ハプスブルクはイギリスと組み、ドイツに仲裁に入ってもらって、
セルビアが独立するだけで勘弁してもらいます。



【やらなきゃいいのに】

ロシアはとりあえず引っ込みました。
トルコは戦争でぼろぼろです。
ここで、ハプスブルク家は考えました。

「あ、じゃあ俺が取ってもいいんじゃね?」

やめとけよ、弱いんだから。
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うるせー、やるんじゃー


ハプスブルクは、ロシアとその同盟国セルビアが地中海に出られないように、
無謀にも海側の国であるボスニア・ヘルツェゴビナを占領しました。
1878年ですね。

これでオーストリアは、強大なロシア&セルビアのスラヴ人コンビと、
明確に対立することになってしまったのです。

こういうのを
「やっちゃった系」
といいます。

内政で大変なのに、ナニやってんだろうな、こいつら。



【ウィーン大改造】

さて、時代はちょっと戻ります。皇帝、フランツ・ヨーゼフは
「もうトルコも来ないんだし、ウィーンをもっと格好良くしよう」

と言い出しました。ものすごい危機感のなさっぷりだ。

1865年。新しいウィーンはこうなりました。
f0075557_0465441.jpg

なんだか皇居とその周りによく似てます。

この近代都市はリング・シュトラーゼと名づけられました。

トルコの侵略を防ぐ防壁はとっぱらわれ、
作曲家、ヨハン・シュトラウス2世は「取り壊しポルカ」という名曲を作ります。

また、いろんな建物も作られました。
ウィーン市庁舎
f0075557_053688.jpg

国立オペラ劇場
f0075557_0534573.jpg

バロックから近代へ。ウィーンの建築は常に最先端です。
戦争や政治は得意じゃないが、藝術ならフランスとも互角です。

ですが、こういう素晴らしい建物ができる一方、
下水道にホームレスとかも増加しました。

なんせこのころのウィーンは狭いところに人口40万人。
貧富の差がどんどん拡大していたのです。
そのため、オーストリア=ハンガリーでも共産主義政党が登場します。
社会民主党です。株式が発達する中、反発も激しかったわけですね。

ウィーンで特に目立ったのは、大金持ちになったユダヤ人です。
ドイツ人やボヘミア人、ハンガリー人に、彼らは
羨望と嫉妬のマナザシで見つめられたのです。

もちろん、その中の一人が、ちょび髭のアドルフ叔父さんです。

f0075557_112823.jpg

ちくしょう、ユダヤめ・・・・



このように、一見景気がよさそうですが、オーストリア=ハンガリーは、
もはや全盛期を過ぎ、いろいろな問題が増えていたのです。



f0075557_1184567.jpg

次回は、この時代の有名人についてだ、このヤロウ!!
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by neo_logic | 2008-09-23 01:13 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第12回
えー、前回会話形式をやってみて
これは盛大に面倒だ
という事が判明したので二度とやらないことにしました。
ついでに少し更新のペースを落としますが、続けるは続けます。ご勘弁を。



【悩みどころは】

イタリアは独立するわ統一ドイツから弾かれるわ、
踏んだり蹴ったりなハプスブルク家ですが、
ともかくまだ生き残ってはいます。

で、1870年ころになるわけですが、
このころ、オーストリア帝国はヨーロッパでも奇妙な位置にいました。

というのは、このころ、ヨーロッパでは「民族自決」つー
考え方が広がっていったのです。

アングロ=サクソン人のイギリス
ラテン民族のフランス
ゲルマン民族のドイツ
スラブ民族のロシア


みたいな、一つの民族が、国という単位でまとまるべきという考え方ですね。

じゃあオーストリア帝国も
ナントカ民族のオーストリアとか、そんなノリで行けるんでしょうか。

ダメ、絶対。
できるわけがありません。
なぜか。この時期のオーストリア帝国の民族構成を見よ。

ドイツ人:23%
ハンガリー人:20%
チェコ・スロヴァキア人:16.4%
クロアチア人・セルビア人:10.3%
ポーランド人10%
ウクライナ人:7.9%
ルーマニア人:6.4%

f0075557_0432271.jpg
「なんでこんなに多いんだ・・・」


しかもこいつら、それぞれ言葉が違う。
こんな国で「ドイツ人のオーストリア」とか言ったら、他から袋叩きです。
1/3もいないんですから。

じゃあもう、オーストリア帝国は、みんなバラバラになる時期なのか?
それもまた無理です。

ばらばらになると同時に、それぞれがドイツやロシアに攻め込まれて、
あっという間に奴隷になってしまいます。

これはまずい。ていうかもうダメじゃね?

ところが、ハプスブルク家は
どれか一民族に支配させるという選択肢も、
バラバラになるという選択肢も、
選びませんでした。



【目指したものは】

じゃあどうしたか。

なんとハプスブルク家は、
「いろんな民族が集まった状態で、絶妙なバランスを保ちつつ維持する」
という方針を取ったのです。

ちょっと聞いて、これが難しそうだなってのはすぐにわかるでしょう。
たとえば我らが日本。
ここでは明治期前後ですら、日本人の血統が90%以上を超えています。

南北朝鮮人・アイヌ人・琉球人などがこれに次いで多いのですが、
彼らは明治期以降、どんどん混血が進んでいく。
そのうえ、かなりの人数が日本語を話すことができます。

これ重要ですよ。一つの国の人が全部同じ言葉を喋るってのは、
政治や経済、教育、軍事全てにおいて、すげぇ楽なのです。

しかしながら、四方八方敵だらけ、自分の民族は少ないっつー
オーストリアでは、それは無理だ。

そう主張したのはパラツキーさんです。
f0075557_0571546.jpg
フランティシェク・パラツキー
František Palacký
(1798 - 1876)


オーストリア史において、マリア・テレジアとカール5世と
同じくらいに重要な人だと思います。

この人は残念ながら学校の教科書にはでてきません。
ですが、この人の考え方がすごく重要なのです。
学校教育でこういう人を取り上げない文科省は、猛省するべきです。

パラツキーさんは言いました。
「ドイツもロシアも南スラブも、どれも強敵だ。
俺たち少数派は、少数派どうしでまとまろう。
そして、そのまとめ役をハプスブルク家にやってもらうんだ」


こんなアイデアは、当時の機運からすると考えられないことです。

だって当時は戦争ばっかりやってたんです。
そんな時に団結する時、当てになるのは文化が共通してるヤツです。
ノリが一緒のヤツです。

ノリが悪いやつを合コンに誘いますか?
普通はしませんね。だって、目的に合致しない人材なんだから。

しかしパラツキーは「誰だろうが、とりあえず集まって協力しよう」
言いました。

この考えは残念ながら、直接採用はされなかったのですが、
ここから150年後の現在。
ヨーロッパはたしかにこの考えを取り入れているのです。

世界最強のアメリカと、躍進するアジア諸国に対抗するために、
EUという形で!



【しかし現実は】

というわけで、ハプスブルクは多民族で行こうとしたのですが、
残念ながらハンガリーが言う事を聞きませんでした。

実は、プロイセンと戦う前に、ハンガリーは一度独立しているのです。
コシュートの指導のもと、ナショナリズムが強まっていたからです。
f0075557_0484125.jpg

結局そのときはロシアとの戦争で負けてオーストリア傘下に戻るのですが、
1867年、オーストリア帝国内部で、事実上の自治を勝ち取ります。

これ以降、オーストリア帝国は
オーストリア=ハンガリー帝国と名前を変えます。

これはアウスグライヒという政策です。
日本語に訳すると「妥協」です。

しかし、ハンガリーを認めたことで、ケチが始まります。

まずボヘミアのチェコ人が怒ります。
「ハンガリーはいいのかよ。じゃあ俺たちはどうなのよ」

ポーランドやウクライナ、スロヴァキアも、
「名前とかは対等にしなくていいから、せめて公平にやってくれ」
と言い出します。

これにはハプスブルク家は悩みに悩みました。
f0075557_050266.jpg
どうすりゃいいんだよ


オーストリア=ハンガリー政府はそれでも、可能な限り妥協します。
実際、オーストリア=ハンガリー=ボヘミア三重帝国にまで
なりそうになりました。議会の反対でギリギリなりませんでしたが。

アウスグライヒ体制下の憲法や官僚制度、軍事制度、教育などをみると、
この当時の「何が何でも公平に。でも現実は厳しいね」
という苦難が、ありありとわかります。



それでは今日はここまで。ハンガリーの町並みを見ながらのお別れです。
ごきげんよう。
f0075557_135836.jpg

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by neo_logic | 2008-09-20 00:51 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】番外編
<今回の記事はレイアウトの性質上、フォントサイズ「中」を推奨します>


【はじめに】

f0075557_19293295.jpg
      どうも、適当に始まってだらだら続いている、
      『ハプスブルクとヨーロッパ』の時間だぜ。
      お相手はあなたの宿敵、霧雨魔理沙



f0075557_19302567.jpg
幻想郷で3、4番目程度に博覧強記を自負する、
アリス・マーガトロイドでお送りします。
・・・・・もうちょっとマシな挨拶思いつかなかったの?


f0075557_1931491.jpg
私は普通だぜ。えーと、今回は番外編ということで、
学校教育の分野からははずれるけど、19世紀の海事技術のお話だ。
船に興味が無くて、東方も知らんって方は、読まなくても損はしないぜ。



f0075557_19302567.jpg
むしろ、どうして始めたのかのほうが知りたいわ・・・
たぶん、これ読んでる人の2割8分6厘も知らないわよ、東方project。
しかもこの画像オタクっぽいし。ヒンシュク買わないかしら。



f0075557_1931491.jpg

     一回だけ、会話形式でやってみたかったんだとさ。
     で、画像が集めやすかったから東方で、だそうだ。




f0075557_19302567.jpg

なんとも安直な理由ね・・・





【帆船から蒸気船へ】

f0075557_19333212.jpg
     さて、早速始めるか。
     本編のほうは普墺戦争(1866年)までいったわけだが、
     これ以前の建造技術はどんな感じだったんだ?




f0075557_19351613.jpgそうね、基本的に、大航海時代、って呼ばれていた
15世紀から17世紀半ば(1400年~1650年くらい)までの
ヨーロッパでは、地中海ではガレー船(手漕ぎ船)、
外洋では帆船(帆掛け船)が主流だったわ。
それ以降、急激な発達は少なかったわね。


f0075557_1935533.jpg
  無敵艦隊戦争のあたりで、そんな話が出てたな。
  産業革命が起こるまでは、漕ぐか帆を使うかしかないからなあ。



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でも、1783年にフランス人のクロード・ダバンが本格的な蒸気船を作った。
そして1807年になると、アメリカの発明家、ロバート・フルトン
ハドソン川での実用化に成功したわ。


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                     スクリューはまだ無いんだよな?



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そうね、外側に水車みたいな車をつけて水をかく、「外輪船」よ。
スクリュー・プロペラの発明は1836年になるわ。


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       あれ、でも、日本に来たペリーの黒船(1853年来航)も
       外輪船だったぜ。横にくっついてるのが外輪だよな。
       年代が合わないぜ?


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【ペリーの黒船(レプリカ)】


f0075557_19351613.jpg推移期間があるのよ。
外輪船とスクリュー船のどっちが速いかを完全に決着付けたのは、
英国海軍が1845年にやったデモンストレーション。
だけど、そのころには、まだまだ現役の外輪船がたくさんあったの。



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じゃあひょっとして、同時期には帆船なんかもまだあったのか?



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あったわ。1850年の船舶総トン数だと、まだ帆船が9割。
蒸気船は1割しかなかったの。



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なるほどねえ。技術が生まれたからって、
すぐに全部入れ替わるわけじゃあないんだな。
じゃあ、19世紀の戦争でも、帆船を使ったことはあったのかな。


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そうね。1840年の阿片戦争では、中国の帆船(ジャンク)が
英国の蒸気船と戦っているわ。もちろん中国のボロ負けで。



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【阿片戦争。帆がついているのが中国のジャンク】


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        見た目だけだと、ジャンクの方が格好いいんだけどな。






【装甲艦とは?】

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さて、次は19世紀の軍事的な造船技術の話ね。
この時代は、装甲艦が増えていったってことが特徴的ね。



f0075557_1935533.jpg   鉄で覆った軍艦だな。
   実用は1859年にフランス海軍が進水させたラ・グロワールが
   最初だって言われているぜ。

   蒸気船の登場と重なり合ってるのは、蒸気機関がないと
   動かせなかったからかな?



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ところが、それは世界中に普及した方の装甲艦の話なの。
歴史的には、その200年以上前にも、
装甲艦を使っていた国があるのよ。



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                            ヨーロッパで?




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それがなんと、日本で。1576年の話ね。
織田信長が九鬼嘉隆に建造をさせた鉄甲船には、
大型の軍艦に、鉄板を張って使われた記録があるわ。




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【信長の鉄甲船】


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                    ひええ、さすが戦国時代だぜ。




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もちろん、それがヨーロッパに伝わったわけじゃないから、
技術的には隔絶してるけどね。





【海戦とオーストリア】

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  じゃあ、19世紀のハプスブルク家はどんな船を持ってたんだ?
  といっても、当時でもオーストリアはほとんど海に面してないし、
  船なんてほとんどなさそうだよな。



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実は、普墺戦争では海戦があったのよ。




f0075557_19333212.jpg
えっ? だって、あれはプロイセンとオーストリアの戦争だぜ?
どっちも大陸の国じゃないか。
陸戦で全部決着がついたんじゃないのか?


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プロイセンにはイタリアが同盟していたの。
だから、イタリア対オーストリアの海戦があったのよ。
アドリア海(現在のイタリアとクロアチアの間)のリッサ沖海戦ね。



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        イタリアとオーストリアか・・・
        どっちも戦争じゃロクに勝てない国どうしだなぁ。




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リッサ沖海戦は、ヨーロッパ最弱をかけての決戦よね。
もっともオーストリアもイタリアも、戦争で弱いのは
基本的に多民族国家だからなのよ。

              
              日本やプロイセンみたいに、統一性が高い国と違って、
              違う言葉でしゃべる人が軍の中にたくさんいたの。

              実際、小隊単位の戦闘だと必ずしも弱いわけじゃないわ。
              単に、国家として戦争する意識が薄いのよ。


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                  ずいぶん弁護するんだな?




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いや・・・単に判官びいきというか・・・






【変わった形の艦首】

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ところで、この船の先端を見てくれるかしら?
リッサ海戦では、オーストリア艦の先は全部
こんな形をしていたのよ。



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【当事の船の先端部】


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          ・・・・なんだかとんがってるなあ?
          私が見たヤマトの先端とはずいぶん違うぜ?


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これ?



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         違う。
ていうかそれ黒歴史だ。私が言ってるのは、もっと先が丸いヤツだ。




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これは球状艦首っていう形ね。水面以下が球形になっているのは、
造波抵抗を打ち消すためよ。最も燃費の良い形とされているわ。





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まあ、宇宙戦艦ヤマトは空飛ぶからどうでもいいんだけどね・・・
戦艦大和の話ね。





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この時代には、波の抵抗について、研究が進んでいなかったのか?




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いいえ、この先端部には別の使い道があったのよ。
それが次に紹介する、リッサ沖海戦で示されるわ。





【リッサ海戦開幕】

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よし、じゃあ、ヨーロッパ最弱決定戦の話を聞こうか。





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両軍の戦力比較を先にやるわね。
まずオーストリアよ。




艦隊司令官 ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ少将
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装甲艦   7
非装甲艦  19
全砲門数  532
船員数   7871


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          こっちがイタリアだぜ。ちなみに両国ともスクリュー船だ。





艦隊司令官 カルロ・ペルサーノ大将
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装甲艦   12
非装甲艦  33
全砲門数  641
船員数   10886


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イタリアはリッサ島を攻略していた。
そこに救援に来たのがオーストリア艦隊だったってわけね。




f0075557_19333212.jpgでも、オーストリアは装甲艦が少ないぜ?
しかもイタリアは最新式大砲を備えているけど、
オーストリア艦は時代遅れの前装式(弾を前から込める)大砲が
ほとんどみたいだぜ。すぐに負けそうだ。


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ところが、そうはならないのよね。
1866年7月20日。両者決戦よ。




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【イタリア艦に突っ込むオーストリア艦】


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       どわああっ?




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これがオーストリアの取った体当たり戦術よ。



             11時20分、オーストリア装甲艦「フェルディナント・マックス」は
             イタリア装甲艦の「レ・ディタリア」に体当たりしてこれを撃沈。

             さらに木造艦の「カイザー」も
             イタリア装甲艦「レ・ディ・ポルトガロ」に体当たり。
             装甲を削り取ったわ。それが上の絵ね。

             カイザーは装甲艦「アフォンダトーレ」の砲撃を受けて炎上。
             それでも砲撃を続け、イタリア海軍を恐怖させた。


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         最初から体当たりで行くつもりだったのか?
         じゃあまさか、あの船の先端部って・・・




f0075557_1948013.jpgそうよ。あの船首のでっぱり(衝角)は、ぶつけて沈没させるためのもの。
この海戦は、衝角戦術が有効に決まった、歴史上最後の戦いなのよ。

戦意が薄いイタリア艦隊相手なら、
技術と物量で劣っていても、覚悟と根性で勝てる確信があったのね。

             リッサ海戦は結局、オーストリア側の大勝利。

             帰国したテゲトフ少将は英雄扱いされて、
             「鉄の心持つ木の艦隊は、木の心持つ鉄の艦隊より強し」
             と称えられたわ。


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   こんなに度胸があるなら、そのくらいは言われてもいいな。








【終わりに】

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今回は19世紀の海事技術と、それを背景に、
オーストリアとイタリアが戦ったリッサ沖海戦について語りました。




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       さんざん技術の話をしておいて、
       最後にまるで無関係な根性論だったな。



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いえいえ、この海戦は、後世の海事技術に大きな影響を与えるのよ。





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   え? そんな影響力のありそうな話じゃなかったぜ?




f0075557_19302567.jpg実は・・・この海戦で、『装甲艦には衝角戦術が有効だぜ!』っていう間違った教訓が世界中に知れ渡ったの。
そのせいで、20世紀始めまで世界中の軍艦に衝角がついてたのよ。

第一次大戦を戦った英国戦艦ドレッドノートにも
ばっちり用意されていたわ。前進も回旋も遅くなるのに・・・



f0075557_1931491.jpg   なるほど。
   まあ、ヨーロッパ最弱を誇るオーストリアとイタリアの海戦が
   ばらまく教訓なんて、そんなもんだろうな・・・
   海戦はパワーじゃないみたいだぜ。



(おしまい)
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by neo_logic | 2008-09-16 20:19 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第11回
そろそろマンネリ化してきたことなど、微塵も気にしないシリーズ
「ハプスブルクとヨーロッパ」、今回はメッテルニヒについてお届けします。



【再建しなくちゃ】

ナポレオンにぼろくそに踏みにじられたハプスブルクですが、
それもロシアの活躍(というよりナポレオンの自爆)で、
もとどおりになりました。

ここで頭角をあらわしてくるのが、オーストリア帝国宰相「メッテルニヒ」です。
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クレメンス・メッテルニヒ
(1773- 1859)

彼はヨーロッパの平和会議を開き、これからの方針を決めることにしました。

これがウィーン会議(1814-1815)です。
200以上の国から領主や国王が集まりました。
イギリス・フランス・プロイセン・ロシア・デンマーク・・・・

ハプスブルク家は一気に大赤字になりましたが、
国の景気が良くなったので帳消し。
メッテルニヒはこういう外交と金勘定が得意な人物だったのです。

ところが、世界最初の大規模国際会議では・・・
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「会議とかいいから、とりあえず遊ぼうぜ」


各国代表は、朝はフェスティバル、昼は狩猟、美術鑑賞、観劇、夜はパレード、舞踏会、コンサート。もっと夜になると大人の時間(笑)。

誰が敵で誰が味方かはっきりしないから、根回しをやる時間を稼いでいたのですが、会議は伸びに伸びさっぱり話がまとまらない。

有名な「会議は踊る」ってやつです。

そのときです!!

      オーストリア
     メッテルニヒ
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   ロシア        プロイセン    イギリス   フランス
アレクサンドル1世  ウィルヘルム3世 カルスレー  タレーラン
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な、なんだってー!!
↑ここでこれを使わず、いつ使う。

あわてて各国は調印。
連合軍は必死に戦い、ワーテルローの戦いでなんとか勝利します。

これ以降、メッテルニヒの外交が実り、ヨーロッパは30年間の平和を
手に入れるのですが・・・

しかし、この均衡はあくまで大国のためのものであり、
これらの属国などは、この後長く搾取を受け続けるわけです。
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【ナポレオン以降のウィーン体制。強国がまとまっていく】




【ウィーン革命まで】

ここから先、メッテルニヒのオーストリアは、警察国家の時代になりました。
言論弾圧、管理主義。ぐっと昔に戻そう、みたいな発想があったのです。

マリア・テレジアとその息子たちによって情熱をもってなされた改革は、
メッテルニヒ体制のもとで、完全に保守化してしまいました。

この時代は「ビーダーマイア」と呼ばれます。

ビーダーマイアさんは小説の登場人物なんですが、
愚直で、俗物、自主性の無い小市民という、ともかく面白くない人。

シンプルな家具を置いた居心地のいい家で、家族と団欒する、という、
そういう生活がよしとされました。

ナポレオン時代の作曲家といえば、重厚・荘厳なベートーベンですが、
ビーダーマイア時代の作曲家といえば、落ち着きのあるシューベルトです。

またこのころ、ウィンナ・ワルツも隆盛を誇りました。
あの毎年、正月にやってるヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」とかです。

たぶんほとんどの人が知ってるんじゃないかな。

下はビーダーマイア時代の典型的な詩と絵です。

   人生の過ごし方

   いつか君に許される時が来たら、そういう境遇を作ってみ給え、
   君にとって人生とは一つの散歩に他ならないようにするのだ。
   あちこち眺め、あれこれ集め、ちょっとばかりワインを飲み、
   途中でいろんな気のきいた知り合いも作り、
   晩方には澄み切った気持ちでふたたび自分に帰り、
   そうして、天国へ、広々とした天国へ、眠りながら入って行く。
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どちらもシュピッツヴェーグ作。オーストリアの隣国バイエルンの人です。
こういう、なんというか、退廃的~な雰囲気だったんですな。


【ウィーン革命】

1830年になると、オーストリアでもイギリスとかよりちょっと遅れて
産業革命が始まります。工場が登場し、造船技術なども発達しました。
いよいよ近代の幕開けです。

その中でも継続していたメッテルニヒ体制ですが、
隣国フランスで1848年に2月革命が起きると、その余波で、
ウィーンの学生と労働者もいっせいに蜂起しました。

ところが、この革命で労働者たちが熱心に襲撃したのは、王宮ではなく、工場でした。
自分たちの仕事を奪う機械を壊しにかかったのです。

学生は学生で、ほとんど無目的に暴れているだけ。
知ってることしか学校で習わないので、ストレスがたまっていたようです。

・・・・・革命なのか、それは。

議会までたどり着いた一団は、何をすればよいのかよくわからず、ぼーっとしています。
気まずい雰囲気が漂ってきたとき、ようやく誰かが演説を始めました。
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なんだか気の毒になってきた議員たちも
「わかった、わかった」的なムードで、要求を認めます。

むしろ王家のほうがよろこんだ。ガチガチ保守派のメッテルニヒが
キライだったみたいです。メッテルニヒは失脚し、ロンドンへ亡命します。

しかし、これに続くハンガリー・チェコでも差別的待遇を受けていた市民が蜂起。
ハプスブルク家は軍隊を出し、勝ったり負けたりの戦いが続きます。

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何がきっかけになるかわからんもんですな。
この中、イタリアがほとんどドサクサ紛れに独立(1861年)
オーストリア・フランス連合軍は統一イタリアに敗北します。



【大ドイツか? 小ドイツか?】

さて、この革命闘争が一段落したころ、
「そろそろいいかげんドイツをまとめないか」という
動きが出てきます。

なんせ神聖ローマが倒れてから、あそこらへんはもうごった煮状態。
となると、そのトップに誰がなるか。これはもう二択です。

ハプスブルク家・オーストリアか?

ホーエンツォレルン家・プロイセンか?


オーストリアはウィーンを首都とした超多民族国家「大ドイツ主義」を主張します。
プロイセンはオーストリア抜きの「小ドイツ主義」を主張します。

マリア・テレジアの時以来の確執に決着をつけるときが来ました。
普墺戦争の始まりです。1866年。

プロイセンのトップは、無く子も黙る鉄血宰相ビスマルク。
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オットー・フォン・ビスマルク
1815年 – 1898年


ここでちょっと、ビスマルクの思想を紹介しましょう。

常備軍と官僚の完成形を作ったと評価されるビスマルクですが、
彼の功績はむしろ、以下のような外交方針にありました。

・強国、フランスとロシアとオーストリアとに、絶対挟み撃ちされてはならない。

以前、強国フランスがオーストリアとスペインにはさまれたときに、
ボコボコにされた、という話を覚えているでしょうか。

イギリスを除くヨーロッパでは、ともかく「はさまれない」ことが重要です。
逆に「はさむ」ことで勝利が近づくのです。

オセロみたいなもんだ。
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それ、オセロじゃねえよ・・・





うるせえな。

さて、それでは、プロイセンが、フランスとロシアに挟まれないためには?
大ドイツ主義では、絶対に警戒されます。

ただでさえ強いプロイセンに、豊かなオーストリアまでついてしまっては、
ロシアとフランスは絶対に手を組むでしょう。

かといって、オーストリアがフランスやロシアと結びついてもまずい。
ここは、オーストリアを徹底的にやっつけ、
その後すばやくフランス・ロシアの対策を練る。

つまり!
プロシアはこのオーストリア戦に全てをかける!


これがビスマルクの思想です。

ビスマルクには自信がありました。その理由は・・・

1.金属製薬莢と無煙火薬の開発によって、撃針銃と呼ばれる
  後装式小銃を用意した。これはオーストリアの銃の三倍の速度で射撃ができる。
2.名将モルトケに指揮を任せた。彼はデンマーク戦で活躍しており、
  鉄道と電信というニュー・テクノロジーを使える、先進的な将軍です。

今も昔も技術のドイツです。

こんなの相手にして勝ち目はない。
ただでさえ、大して強くないオーストリア帝国は、
ケーニヒグレーツの戦いでさんざんに敗北してしまいました。

プロイセンの死者9000に対して、オーストリアは44000人が殺されたのです。

こうして小ドイツ主義は完成、さらにプロイセンはフランスとの戦争(普仏戦争)にも勝利。
神聖ローマ帝国(第1帝国)に次ぐドイツ帝国(第2帝国)を作りました。

オーストリアの大ドイツ主義の完敗です。
しかし、よく負けるよなぁ、この国。

ともかく、メッテルニヒが構想していた
・オーストリアは再び、ドイツ諸国の指導者に戻る。
・フランス・オーストリア・ロシアという三すくみ状態に戻す。

というもくろみは、これで完全に消えうせてしまいました。

強大なフランス・ロシアに加えて、ドイツ・イタリアという国まで生まれ、
多民族国家オーストリアには、新たな方針が必要になったのです。


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次回はちょっと休憩を兼ねて、海事技術の話だぜ。
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by neo_logic | 2008-09-14 21:55 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第10回
ところで、どうもハプスブルではなく、ハプスブルのほうが、
多く使われているようです。ドイツ語では"g"で終わると"ク"って発音するらしい。

そんなわけで、今回からハプスブルクと記述します。
もちろん今までのは面倒だから直しません。



【ベルサイユにて】

前回、プロイセンを恐れたオーストリアとフランスが同盟したって話をしました。
このため、ブルボン家とオーストリア家は縁組をします。

マリア・テレジアの末娘がフランスのルイ16世に嫁いだわけですね。
この末娘がマリー・アントワネットです。

「貧乏人は麦を食え」と言った人ですね。
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そうだった。ありがとう仙道。

「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」
と言った人ですね。まあ、本当に言ったかはあやしいらしいですが。

フランス宮廷では、これまで敵だったオーストリアから嫁が来るとのことで、
「オーストリア女」
とか呼ばれて妬まれたりもしたそうです。

アントワネットがベルサイユ宮殿に入ってからのロマンスやゴシップは
無尽蔵にあるのですが、オーストリアとは直接の関係がないので省略。

ここらへんをあつかったフィクションなら、言うまでもなく、
宝塚歌劇団で有名な「ベルサイユのばら」がありますね。
池田理代子大先生のマンガも傑作です。
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・・・なんで塗り絵なんだ。

ちなみに、最近ベルサイユのばらブランドの化粧品が出ました。
まつげが三倍くらいにのびるそうです。

女性のかた、積極的に買って使って私に写真を送ってください。
魔よけかなにかに使いますので。



【動乱の時代へ】

マリア・テレジアの時代に、オーストリアは一気に近代化が進みました。
彼女の息子兄弟も負けずに改革を進めます。

このころになると、「貴族が威張っているだけでは国は成り立たない」
みんなが気がつき始めていました。

そこでオーストリアとプロイセンは、フランスの思想家である
モンテスキューヴォルテールから、いろんなことを勉強していました。

オーストリア:(。-`ω-)ウーン「どうすれば強い国が作れるだろう?」
プロイセン:(´-ω-`;)ゞムムム…「どうすれば国が豊かになるのかな?」


ところが皮肉なことに、肝心のフランスでは、
アンシャン・レジームと言って、古い体制が残っていました。
貴族と神官は、金持ってるくせに税金払わなくていいのです。

フランス: (*´∇`)σゲラゲラ「俺が楽しけりゃどーでもえーわ」

フランスの民衆は、ベルサイユでバカ騒ぎしている王家を憎みます。
そして・・・・
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フランス革命が起きるのです。1789年。

バチですね。いや、バツだな。

ルイ16世もアントワネットも、あわれギロチンで処刑されてしまいます。

余談ですが、日本の大学で最も深く研究された世界史のテーマは、
フランス革命だそうです。
だから日本の教科書には、フランス革命がやたら丁寧に書いてあるのです。




【大天才あらわる】

さて、このフランス革命にびっくりした周辺諸国は、いっせいに手を組みます。
これが対仏大同盟です。

仲の悪いハプスブルグ家・オーストリアとホーエンツォレルン家・プロイセンも、
とりあえずこの一大事には手を組みます。

ところが、このフランス革命軍に、ヨーロッパで最も有名な男があらわれます。

いわずもがな。ナポレオンです。
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ナポレオン・ボナパルト
1769-1821


諸国はいっせいにフランスへ軍隊を向けますが、
イギリスもオーストリアもロシアもプロイセンもスウェーデンも
ポルトガルもオスマン帝国もサルデーニャ王国も教皇領も、
大天才ナポレオンには手も足も出ません。


逆にナポレオンが侵略を開始します。
そしてハプスブルグ家オーストリアも、ついにウィーンを取られてしまうのです。

オスマントルコにも、スウェーデンにも、プロイセンにも
取られなかったウィーンを!!
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神聖ローマ帝国は、このナポレオンによって名実ともに完全解体。
800年の歴史に幕を閉じます。

これ以降、オーストリアは「神聖ローマ帝国」ではなく「オーストリア帝国」と
名前を変えてしまいます。

ナポレオンは1804年に皇帝になります。
下の地図のうち、色がついているのがナポレオンに降伏した国。
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ほとんどヨーロッパ全部じゃねぇか。

ところが、この天才ナポレオンは調子に乗ってロシアを攻めますが、
「寒い」
という理由で負けてしまいます。そう、ロシアは寒い。
フランスの薄い靴や服では、凍傷を防げなかったのです。

ちなみに、ここから数えて150年後。
ヒットラーもほとんど同じ理由でロシアに負けます。

ともかく、オーストリアもプロイセンもイギリスも、
これを聞いて大喜び。

「やっちまえ」
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このドラえもん、異状に怖いんですけど。

てなわけで1813年。
ライプツィヒの諸国民戦争でこんどはあべこべにパリが陥落。
ナポレオンは島流し。ブルボン家が復活しました。



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「今回はここまでだ。次回はメッテルニヒの話だ。
あと、俺がガンダムだ」

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by neo_logic | 2008-09-13 11:25 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第9回
【私の味方はどこに】

今回も、マリア・テレジアの話です。できれば前回も読んでね。

オーストリア継承戦争の第一幕で、いきなりプロイセンの攻撃を喰らったオーストリアは
主力のナイペルク伯爵指揮下20000をシュレジエンへ向けました。
フリードリヒ大王以下、プロイセンの20000はこれに真っ向から勝負を挑みます。

まあさんざん見てきた話ですが、
同数だとたいてい勝てない
わけです。

ましてやプロイセンは生粋の戦争屋です。
被害は互角ですが、シュレジエンは取り返せませんでした。

マリア・テレジアはこの敗戦の報に涙しました。
しかも神聖ローマ皇帝だった父、カール6世は前年に死亡します。

婿養子フランツと結婚して男子も生まれましたが、
それにしてもプロイセンのパンチが強烈過ぎました。

しかし、当事の弱肉強食なヨーロッパにおいても、
全くなんの理由も無く攻めてくるというのは
ルール違反です。

マリア・テレジアはオーストリア領内の貴族たちに救いを求めます。
ところが、イマイチこの大事態に対して反応がありませんでした。

バロック時代の浮かれ気分だったというのもありますが、
それ以上に、マリア・テレジアは成り行きでオーストリア大公になったただの娘さんです。

金も無い。

信用も無い。

軍隊も無い。

経験も無い。

知識も無い。

助言する者もいない。

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普段は味方ヅラしているイギリスまで、
「シュレジエンくらいあげたっていいじゃないか、人間だもの」
とか言い出します。

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「誰か、私を助けてくれる人はいないのかしら?」








【そうだ、ハンガリー 行こう】

マリア・テレジアはオーストリアの宮廷で、仕事もせず遊び暮らしている、
バブル期入社の使えねぇリーマンみたいな連中をさっさと見切り、
仲間探しの旅に出ます。

そして、旅の酒場ルイーダにて
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という情報を得ます。

ハンガリーは古くからのオーストリアの属国で、
マリア・テレジアは、ひいてはハンガリーの女王でもあるのです。

ですが、ここにも不穏な空気が流れています。
いっそ、この機会にオーストリアから独立してやろうかと
思っているハンガリー貴族たちまでいました。

それでも、もはや望みはここにしかありません。
マリア・テレジアは単身、ハンガリー議会へ乗り込みました。

当事彼女は23歳。
そのうえ3人の子持ちで、1人がお腹の中にいます。
政治や戦争なんて夢のまた夢としか思えない状況です。


【ハンガリー議会】
( ^▽^)σ「小娘が何しに来るんだよ」
(´。` )「よく来るよな。同じ国って言っても、敵みてーなもんじゃん」
(´、ゝ`)「殺せ、いいチャンスだ。殺しちまえ」


ところが、マリア・テレジアがハンガリーに来ると、
ハンガリーの貴族たちの態度が徐々に変わっていきます。

マリア・テレジアは忍耐強く、断固として意見を曲げず、オーストリアの窮状を訴えます。
熱論は5ヶ月も続きました。

父、カール6世の喪に服した黒のヴェールをまとい、
涙ながらに真情を吐露するテレジアの心に、
ついにハンガリーの貴族たちは胸襟を開いたのです。

【ハンガリー議会】
(゚▽^*)ノ「オーストリアは俺たちを認めたんだ!」
( ´∀`)「俺たちは昔から仲間だったんだ!」
(^◇^)o「マリア・テレジアは俺たちの女王だ!!」


ハンガリーは精鋭軍パンドゥールをオーストリアに提供し多額の軍資金を約束します。
そのうえ、自らの一族郎党まで戦いに参加することを誓約します。

こうして、弱体化しつつあったオーストリア軍に新たな核が登場し、
プロイセンに立ち向かう準備ができはじめてきたのです。



【国家再建へ向けて】

こうしてオーストリア継承戦争中盤以降、
ハプスブルグはハンガリーの参戦で勢いを取り戻します。

結局シュレジエンは奪われたけれど、痛みわけ。

ちなみに神聖ローマ皇帝位はどうなったって話ですが、
これは結局テレジアの旦那さんが継ぎました、
といっても、実質マリア・テレジアと旦那の共同統治です。

旦那は外交とか戦争とかはあまり上手ではなく、
むしろ財政再建とか科学振興に貢献しました。
今の日本に欲しいですな。

さて、ここから、マリア・テレジアが本領を発揮します。
プロイセン打倒をめざすには、うかうかしててはいかん。


国家の大改革に着手します。

1.国勢調査の実行
  貴族が領民を把握しているこの時代に、皇帝が全ての住民、家畜、家屋敷を
  調査したのです。「まさかできるわけがない」といわれましたが成功しました。
2.裁判所を行政から独立
  大貴族や富豪の都合がいいようにやっていた裁判制度を廃止し、
  公平で、適切な判断を専業の裁判官にやらせます。
3.軍隊の増強
  プロイセンに勝つために陸軍養成所を設立します。
  功績著しい将軍には、マリア・テレジア勲章を授与しました。
4.医療制度改革
  それまでの手術なんて血を抜くだけなので治るわけがありません。
  杉田玄白も学んだオランダ医学を取り入れ、各地に病院を設立しました。
  オーストリアの死亡率はこれで激減します。
5.教育制度実現
  貴族の家庭教師制度しかなかったような教育現場へ、
  義務教育を導入。小学校を作り、字を読める人が倍増します。
6.宗教改革
  カトリックの修道院や巡礼、祝祭があまりにも多すぎるので制限。
  1年の3分の1が祝日なんてばかげた時代はこれで終わりました。

これでようやく半分くらいです。一代でこれだけ大きく国家体制が変わったのはオーストリア史の中でもこの時だけです。



【女として、母として、人として】

マリア・テレジアは優秀だっただけでなく、優しく、気さくな性格だったそうです。
旦那のフランツとも仲が良かったし、子供は16人もいました。

シェーンブルン宮殿で、彼らは一家そろってモーツァルトの演奏を
聞いていたり、王宮の中だけではなく、外のコンサートへもお忍びで行って、
庶民と一緒に音楽を楽しんだりしていた。

大改革で民衆も一度はあわてましたが、女王の人となりが徐々にわかってくると、
彼らは次第に受け入れるようになってきました。

こんな話があります。

ある日、マリア・テレジアが王宮の外を散歩していると、物乞いの女の人が泣いていました。赤ん坊を抱いています。可愛そうに思ってマリア・テレジアが財布を開くと、
物乞いは怒ってテレジアの手を払ってしまいました。

「金貨で腹がふくれるものか!」

見ると、赤ん坊はぐったりとしていました。栄養失調で母親の乳が出ないのです。
マリア・テレジアはそっとその赤ん坊を抱くと、自分の乳房を吸わせたそうです。


実話かどうかはともかく、こういう話が生まれるほど慕われていたのです。

マリア・テレジアの改革は、単に君臨し支配するという政治ではなく、
国民に奉仕する政治という考え方をすでに取り入れていたのです。



【まさかの同盟】

さて、この女性的なマリア・テレジアにとって、
プロイセン王のフリードリヒ大王は心底嫌いな相手でした。

フリードリヒは男性至上主義者で、
「女は産む機械」と本気で言っていたのです。

どこかの政治家なら失言ですが、こいつは本気です。
オーストリア継承戦争で倒れなかったマリア・テレジアは、ここで決意を蘇らせます。

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フリードリヒには、絶対に借りを返す

そして、ついにフリードリヒ大王の度肝を抜く、大事件が起こるのです。
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マリア・テレジアは「300年の宿敵」
であるフランスと同盟を結ぶのです。

ここに、1750年の「外交革命」と呼ばれる、
ハプスブルグ=ブルボン同盟が誕生します。


さらにこの同盟へ、新興国ロシアも加わりました。

ハプスブルグ家のマリア・テレジア大公
ブルボン家のルイ15世夫人ポンパドゥール
ロシアのエカチェリーナ女帝


俗に言う「三枚のペチコート」にフリードリヒが囲まれます。

「弱体化したポーランドを占領しようぜ」
とか、フリードリヒは空気読まずに提案しますが、マリア・テレジアは
「そんなみっともないこと、やってられっか!」
と、第1回以降、参加を拒否。その1回も、
「生涯最大の不名誉」
と言っています。

なお、この各国でよってたかってポーランドを切り取った、
「第1回ポーランド分割」は1772年です。そのあとオーストリア以外で2回、3回とやったせいで、
ポーランドはほとんど消滅してしまいました。


ともかくそんなことが提案できるくらい、フリードリヒは強くて賢かったのですが、
女を本気で怒らせる男は、バカだということは理解していなかったようです。

次の7年戦争(1756-1763)で、プロイセンはいよいよこの3国を相手に戦います。
得意の戦術で次々敵軍を打ち払いますが、なにせ数が多すぎます。

フリードリヒは、乗った馬が2度も殺され、
さらに銃弾が胸のタバコ入れにぶつかって致命傷を避けたという、
マンガみたいな激戦にさらされます。

しかし、ハプスブルグ家があとわずかで本拠地ベルリンへ侵攻という直前、
同盟軍ロシアのエカチェリーナが死亡しました。
ハプスブルグ家はここで、慎重に軍を引き上げました。

もしマリア・テレジアがベルリンに攻め入っていたら?
フリードリヒは殺されていたかもしれません。


それは神のみぞ知るというところですが、
さすがのマリア・テレジアも、戦場の駆け引きだけはあまり上手ではなかったそうです。

ともかく、これで、二つのことが知れ渡りました。
一つは、プロイセンが強いということ。
もう一つは、オーストリアが強くなったということです。


プロイセンに負けずオーストリアは大きく成長しました。
その成長を支えたのは、国母と呼ばれたマリア・テレジアだったのです。
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オーストリア皇后・ハンガリー女王・ベーメン女王・パルマ女公・ロレーヌ公妃・トスカーナ大公妃
マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
(1717-1780)

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by neo_logic | 2008-09-10 23:37 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第8回
シベリア超特急並みのやっつけと、東京ダイナマイト並みのシュールなギャグで
お送りするシリーズ「ハプスブルグとヨーロッパ」にようこそ。

・・・・・・・・自虐ネタでスタートするのやめよう。やる気がなくなる。



【英明果断なるハプスブルグの母】

さて、今回から二回にわたり、一人の女性を取り上げます。
一人の、非常に重要な女性を取り上げます。

女帝「マリア・テレジア」です。

オーストリア史を語るときにマリア・テレジアを語らないのは、
日本史を語るときに織田信長を語らないようなもんです。

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【若き日のマリア・テレジア】


マリア・テレジアこそ、ハプスブルグ家の中でも
最も波乱万丈な一生を送った、
最もハプスブルグ家の人間らしい人物です。

なにしろ、
素晴らしい妻であり、
素晴らしい母であり、
素晴らしい政治家であり、
ダメな将軍だった

のです。ハプスブルグ家の見本のような人だ(←ほめ言葉)

さて、それではマリア・テレジアの生涯を見てきましょう。



【マリア・テレジア即位?】

前回述べたとおり、トルコ戦、フランス戦でオーストリアが
ガラにもなく連戦連勝。お祭り騒ぎをくりひろげていました。

なんせこの当事、オーストリアは一年の三分の一が祝日だったんです。
浮かれすぎ。仕事しろよ。

ところがそんなさなか。
当事の神聖ローマ(←一応まだある)の皇帝だった、
ハプスブルグ家のカール6世に、
男の子が生まれないという事態が発生しました。

ハプスブルグ家・カール6世
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「じゃあ次の皇帝は、私の娘のマリア・テレジアだ」



ブルボン家・ルイ15世
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「あ”? テメェ今なんつった?」




フランスがこれを見逃すものですか。
神聖ローマ皇帝は男じゃなきゃなれない。
マリア・テレジアは女性じゃないですか。

そんなわけで、いつもどおりフランスが因縁ふっかけてきました。
これがオーストリア継承戦争(1740-1748)です。

さて、今回のチームは・・・・・

オーストリア(ハプスブルグ家)        フランス(ブルボン家)
イギリス(ハノーバー家)        VS  スペイン(ブルボン家)
サルディーニャ                  バイエルン
ザクセン                     プロイセン(ホーエンツォレルン家)


こーんな感じです。

ところで、青字で書きましたけど、プロイセンってありますよね。
これまであまり見なかった名前です。プロイセンってなんでしょう。



【恐るべきプロイセン】

神聖ローマは、だいたい今のドイツ+オーストリアです。
で、三十年戦争後、カタチだけのものになりました。

この時、オーストリア付近はハプスブルグがごっそり支配。
ドイツのあたりは、まだまだごった煮状態でした。

そのドイツで頭角をあらわしたのが、
ホーエンツォレルン家のプロイセン国だったというわけですね。

この国がオーストリア継承戦争ではフランス側につきました。
新参者のプロイセンは・・・・

なんと、オーストリアの最重要拠点シュレジエンへ、
真っ先に強襲をかけた!


びっくりしたのはフランス。
((((;゜Д゜)))「あああああ、アホかあいつは!!」

なんせフランスは、実際に戦って知っています。
オーストリアの国力の高さを。兵隊と武器の多さを。

ホーエンツォレルン家プロイセンなんて、
もともとハプスブルグ家の部下みたいなもの。


それが突如反逆の狼煙をあげるや、
フランスの援軍も待たずに突っ込んでいったのです。

((((;゜Д゜)))「皆殺しにされるぞ、あいつら」

と、思いきや!

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これはいったい何事でしょうか。

ドイツには邪魔くさい森がある。寒い。資源がない。
こんなところで、まともな国力を養うのは大変なはずです。

ヨーロッパじゅうの驚愕を背に、堂々と登場したプロイセン。
この国には、いったいどんな秘策があったのでしょうか。

プロイセン成立の過程で、ホーエンツォレルン家はこんな方針を立てました。

1.制度をがっちり固めよう。
  軍隊と役人のシステムや階級を、これまでないくらい丁寧に作りました。
2.ちゃんとした法律を作ろう。
  ドイツにはいろんな民族がいます。まとめるために、統一した法律を作りました。
3.宗教なんてなんでもいいじゃん。
  宗教で仲間割れしてるヒマはありません。プロテスタントもカソリックもOKです。
4.勤勉! 努力! 根性出せ!
  この精神論も実はかなり有効でした。
  というか、もともとこういう奴らが集まってたのですな。

ここまで聞いて、どこかを連想しませんか。
そう。今のドイツです。

外交でも内政でもサッカーでも
規則に厳しく、自分に厳しく、他人に厳しい。
このドイツの国民性というのは、プロイセン時代から受け継いでいるのです。

鉄の掟、鉄の絆、鉄の意志。

フランスはまだこの時点で気がついていませんでしたが、
プロイセンはこれをそろえ、十分な自信を持ってオーストリアへ攻め入ったのです。

プロイセン国主フリードリヒ大王は、オーストリアの最重要拠点、
石炭と鉄鉱石の産地にして穀倉地帯であるシュレジエンに降り立ちました。

そしてマリア・テレジアへ向かって、冷たい笑みを浮かべます。
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「うら若い女王様へ、ちょっと挨拶に来ただけさ」


この態度に、マリア・テレジアは逆上します。
憎い憎い憎い、逆賊フリードリヒ。
この恨みいかにしてぬぐえよう。


この時、マリア・テレジアの心に、
生涯の宿敵として、フリードリヒの名前が刻まれます。



さて、ここからが本番なのですが、眠くなってきたんで以下次回。
がんばれ、マリア・テレジア。
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by neo_logic | 2008-09-09 23:19 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第7回
もともとハプスブルグの勉強をせざるを得なかったので、
しょうがなく始めたのですが、なんだかだんだんノリノリになってきました。
まあ、今日も楽しく行きましょう。



【またトルコだ!】

神聖ローマが有名無実化したので、ハプスブルグ家はとりあえず
自分の領地だけをまとめていきます。だいたいこんな感じ。
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肌色がハプスブルグ家。現在のオーストリア・チェコ・ハンガリーあたりですね。

ハプスブルグ家は、カネも兵隊も領土も減ってしまいましたが、
カトリックだけでまとまったので、かえって結束力は高まります。
とりあえず盛り返しの時期に入る。

ところが、ここでまたヨーロッパの天敵トルコがやってきます。
ハンガリーを蹴倒してガンガン北上。

またもウィーンは取り囲まれました。
1683年、第二次ウィーン包囲です。

ウィーンを守る兵隊は4千人。
トルコは20万。

ハプスブルグには良将のオイゲン公がいますが、
たとえ強くたって、50倍の兵力に囲まれりゃあたまりません。

しかし、この危機にまた奇跡が起こります。

基本的に、ハプスブルグには幸運がついて回るのです。

「キリスト教が負けてたまるかい」
と北から援軍がやってきます。ヤン3世率いるポーランド連合軍です。
ハプスブルグにすれば神の姿に見えたことでしょう。
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【ヤン3世ソビエスキと愉快な仲間たち】


こうして、ハプスブルグはまたも生き残りました。
さらに後年、オイゲン公の活躍で同盟国ハンガリーのトルコも追い払います。

本当こいつら運がいいよな。



【スペイン・フランスに降る】

今度はスペイン・ハプスブルグへ目を移しましょう。
1700年。ハプスブルグのカルロスが死んだら、跡継ぎがいなくなりました。

これに大喜びしたのがフランス。
なにせこいつらはハプスブルグが大嫌い。
あの異教徒トルコが攻めてきた時に救けなかったの、こいつらくらいですよ。

「跡継ぎいないの? じゃあしょうがないなぁ!
 スペイン国王はフランスから出してあげるよ!」


誰も頼んでません、そんな事。
ダイエットしてる人にデコレーションケーキを持ってくるようなありがた迷惑です。

スペイン・ハプスブルグはもうヨワヨワなので、怖いいじめっ子に逆らえません。
頭にきたオーストリア・ハプスブルグが、フランスを後頭部からぶん殴りました。

   ↓オーストリア
  ∧_∧
  ( ・∀・)   | |
 と    )    | | ガッ
   Y /ノ    人
    / )    <  >__∧∩
  |ヽ/| //.  V`Д´)/    ←フランス
< ○ >        /
 ∨∨


これがスペイン継承戦争(1701年-1714年)です。
オイゲン公の活躍と周辺諸国の協力で、オーストリアは意外にも善戦。
しかし、ガタガタだったスペインはフランスから来た王様を認めてしまいます。

スペインの領土の一部は、オーストリアが引き継ぎましたが、
ついにここで、スペイン・ハプスブルグは消滅してしまうのです。

ところで、この戦争の講和は、1913年のユトレヒト条約で大体決まりました。
その内容をちょっとよく読んでみましょう。

・イギリスは、スペイン王国の奴隷貿易に参加できる。
・イギリスはスペインから、ジブラルタル及びメノルカ島をもらう。
・イギリスはフランスから、アカディアとニューファンドランド島をもらう。

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なんで今の文脈でイギリスが出てくるよ。

実はこのとき、並行してアメリカでもイギリスとフランスが戦争してたのね。
で、その流れでイギリスはオーストリア・ハプスブルグと組んでいた。

そんなわけで、全力でぶん殴りあってたフランスとオーストリアの横から、
ほとんどイギリスが利益をかっさらっていったわけです。

ひどい。
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ひどすぎる。


この後のポーランド継承戦争(1733-1738)でも
オーストリアとフランスがぶつかるけど、
どっちかっつーとロシアとザクセンがメインなので省略。

ただ、対トルコ戦争、スペイン継承戦争、ポーランド継承戦争を通じて、
オーストリアのハプスブルグがかなり立ち直ったってことは重要です。



【戦争ばかりじゃつまらない】

どうしてハプスブルグ家が再興したことが重要なのか?

それは、1700年を越えたあたりから、
ハプスブルグ家ではバロック文化が発達するからです。

では、バロックとはなんぞや?

バロックとは、カトリックの精神にのっとった、イタリア生まれの建築様式です。
オーストリアはこれを引き継ぎ、本家イタリアにまで絶賛されました。

見よ、この豪奢な家々を。
これらはみんな、この時代にできたものです。

シェーンブルン宮殿
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メルク修道院
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カール教会
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バロック建築の特徴は、豪華な装飾、大理石の彫像や柱像、渦巻き模様の彫刻やレリーフ、色彩あふれるフレスコ画、巨大な鏡、シャンデリアなどです。

ともかくゴージャス。

バロックは、三十年戦争でカトリックを死守し、
ウィーン包囲でトルコを撃退したオーストリアの
「カトリックで良かった!」ヾ(*・∀・)/
と、いう自信の表れなのです。

さらにこのころ、ヨーロッパ最大の難病だったペストが減った。
「神様、ありがとう!」ヾ(*・∀・)/

冷静に考えると、戦争で生き残れたのは傭兵とか援軍のおかげだし、
ペストが減ったのは衛生処理が進んだからなのですが・・・



ま、まあいいや。
よかったね。
うん。


ええと、バロックに話を戻そう。悲しくなる前に。

バロックはさらに建築だけではなく、音楽や文学にも広がっていきました。
豪華な宮殿には、豪華な演劇や豪華な演奏がつきものです。

じゃあ演劇と演奏を混ぜてみましょう。オペラというジャンルが登場します。
これを上手に作れる作曲家はいないのか?

います。大天才・モーツァルトの登場です。
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他にもハイドンやらベートーベンやらもバロックです。
ウィーン音楽の黄金時代の到来です。

調子にのって浮かれてたハプスブルグ家は、
こいつらのパトロンをやってくれたわけです。

微妙な気分ですが、とりあえず喜んでおきましょう。

というわけで、今回はここまで。
ウィーンの町並みを見ながらのお別れです、ごきげんよう。
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by neo_logic | 2008-09-08 22:24 | ハプスブルクとヨーロッパ