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【ハプスブルクとヨーロッパ】第13回
縁起でもない13回目おめでとう。
前回はアウスグライヒ体制という内政について紹介しましたが、
今回はこの多民族国家オーストリア=ハンガリー二重帝国の
対外政策と、ウィーン大改造を見てみましょう。



【周りを見渡すと】

さて、このころのハプスブルクは四方八方を
いろんな国に囲まれました。そして、ほとんど敵対しています。

北はプロイセンに取られました。
西には強国フランスがいます。
東にも強国ロシアがいます。
南西のイタリアは独立してしまいました。
そして、南東にはバルカン半島があります。

地図を見てみましょう。この時代はこんな感じ。
f0075557_22105241.gif

このバルカン半島をにょろっと見てみましょう。
オーストリア=ハンガリーの南東一帯です。

・セルビア
・ルーマニア
・ブルガリア
・ギリシャ

なんかがいますね。

こいつらはどういうヤツか。もともとオスマントルコに取られていたので、
宗教が、正教、カトリック、イスラームとかいろいろ混ざっているのが特徴です。
民族的には相対的にはスラブ人が多い。ロシアと一緒です。

「じゃあロシアだよな」
というジャイアンみたいな思想で、ロシアがトルコを攻撃します。

こいつらしょっちゅう小競り合いしていて、これで大きいのは5回目です。
1877年の露土戦争では、ロシアが勝ちました。

オーストリアはこれを見てぎょっとする。
弱体化していたトルコならともかく、強いロシアに南はふさがれたくない。

ハプスブルクはイギリスと組み、ドイツに仲裁に入ってもらって、
セルビアが独立するだけで勘弁してもらいます。



【やらなきゃいいのに】

ロシアはとりあえず引っ込みました。
トルコは戦争でぼろぼろです。
ここで、ハプスブルク家は考えました。

「あ、じゃあ俺が取ってもいいんじゃね?」

やめとけよ、弱いんだから。
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うるせー、やるんじゃー


ハプスブルクは、ロシアとその同盟国セルビアが地中海に出られないように、
無謀にも海側の国であるボスニア・ヘルツェゴビナを占領しました。
1878年ですね。

これでオーストリアは、強大なロシア&セルビアのスラヴ人コンビと、
明確に対立することになってしまったのです。

こういうのを
「やっちゃった系」
といいます。

内政で大変なのに、ナニやってんだろうな、こいつら。



【ウィーン大改造】

さて、時代はちょっと戻ります。皇帝、フランツ・ヨーゼフは
「もうトルコも来ないんだし、ウィーンをもっと格好良くしよう」

と言い出しました。ものすごい危機感のなさっぷりだ。

1865年。新しいウィーンはこうなりました。
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なんだか皇居とその周りによく似てます。

この近代都市はリング・シュトラーゼと名づけられました。

トルコの侵略を防ぐ防壁はとっぱらわれ、
作曲家、ヨハン・シュトラウス2世は「取り壊しポルカ」という名曲を作ります。

また、いろんな建物も作られました。
ウィーン市庁舎
f0075557_053688.jpg

国立オペラ劇場
f0075557_0534573.jpg

バロックから近代へ。ウィーンの建築は常に最先端です。
戦争や政治は得意じゃないが、藝術ならフランスとも互角です。

ですが、こういう素晴らしい建物ができる一方、
下水道にホームレスとかも増加しました。

なんせこのころのウィーンは狭いところに人口40万人。
貧富の差がどんどん拡大していたのです。
そのため、オーストリア=ハンガリーでも共産主義政党が登場します。
社会民主党です。株式が発達する中、反発も激しかったわけですね。

ウィーンで特に目立ったのは、大金持ちになったユダヤ人です。
ドイツ人やボヘミア人、ハンガリー人に、彼らは
羨望と嫉妬のマナザシで見つめられたのです。

もちろん、その中の一人が、ちょび髭のアドルフ叔父さんです。

f0075557_112823.jpg

ちくしょう、ユダヤめ・・・・



このように、一見景気がよさそうですが、オーストリア=ハンガリーは、
もはや全盛期を過ぎ、いろいろな問題が増えていたのです。



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次回は、この時代の有名人についてだ、このヤロウ!!
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# by neo_logic | 2008-09-23 01:13 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第12回
えー、前回会話形式をやってみて
これは盛大に面倒だ
という事が判明したので二度とやらないことにしました。
ついでに少し更新のペースを落としますが、続けるは続けます。ご勘弁を。



【悩みどころは】

イタリアは独立するわ統一ドイツから弾かれるわ、
踏んだり蹴ったりなハプスブルク家ですが、
ともかくまだ生き残ってはいます。

で、1870年ころになるわけですが、
このころ、オーストリア帝国はヨーロッパでも奇妙な位置にいました。

というのは、このころ、ヨーロッパでは「民族自決」つー
考え方が広がっていったのです。

アングロ=サクソン人のイギリス
ラテン民族のフランス
ゲルマン民族のドイツ
スラブ民族のロシア


みたいな、一つの民族が、国という単位でまとまるべきという考え方ですね。

じゃあオーストリア帝国も
ナントカ民族のオーストリアとか、そんなノリで行けるんでしょうか。

ダメ、絶対。
できるわけがありません。
なぜか。この時期のオーストリア帝国の民族構成を見よ。

ドイツ人:23%
ハンガリー人:20%
チェコ・スロヴァキア人:16.4%
クロアチア人・セルビア人:10.3%
ポーランド人10%
ウクライナ人:7.9%
ルーマニア人:6.4%

f0075557_0432271.jpg
「なんでこんなに多いんだ・・・」


しかもこいつら、それぞれ言葉が違う。
こんな国で「ドイツ人のオーストリア」とか言ったら、他から袋叩きです。
1/3もいないんですから。

じゃあもう、オーストリア帝国は、みんなバラバラになる時期なのか?
それもまた無理です。

ばらばらになると同時に、それぞれがドイツやロシアに攻め込まれて、
あっという間に奴隷になってしまいます。

これはまずい。ていうかもうダメじゃね?

ところが、ハプスブルク家は
どれか一民族に支配させるという選択肢も、
バラバラになるという選択肢も、
選びませんでした。



【目指したものは】

じゃあどうしたか。

なんとハプスブルク家は、
「いろんな民族が集まった状態で、絶妙なバランスを保ちつつ維持する」
という方針を取ったのです。

ちょっと聞いて、これが難しそうだなってのはすぐにわかるでしょう。
たとえば我らが日本。
ここでは明治期前後ですら、日本人の血統が90%以上を超えています。

南北朝鮮人・アイヌ人・琉球人などがこれに次いで多いのですが、
彼らは明治期以降、どんどん混血が進んでいく。
そのうえ、かなりの人数が日本語を話すことができます。

これ重要ですよ。一つの国の人が全部同じ言葉を喋るってのは、
政治や経済、教育、軍事全てにおいて、すげぇ楽なのです。

しかしながら、四方八方敵だらけ、自分の民族は少ないっつー
オーストリアでは、それは無理だ。

そう主張したのはパラツキーさんです。
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フランティシェク・パラツキー
František Palacký
(1798 - 1876)


オーストリア史において、マリア・テレジアとカール5世と
同じくらいに重要な人だと思います。

この人は残念ながら学校の教科書にはでてきません。
ですが、この人の考え方がすごく重要なのです。
学校教育でこういう人を取り上げない文科省は、猛省するべきです。

パラツキーさんは言いました。
「ドイツもロシアも南スラブも、どれも強敵だ。
俺たち少数派は、少数派どうしでまとまろう。
そして、そのまとめ役をハプスブルク家にやってもらうんだ」


こんなアイデアは、当時の機運からすると考えられないことです。

だって当時は戦争ばっかりやってたんです。
そんな時に団結する時、当てになるのは文化が共通してるヤツです。
ノリが一緒のヤツです。

ノリが悪いやつを合コンに誘いますか?
普通はしませんね。だって、目的に合致しない人材なんだから。

しかしパラツキーは「誰だろうが、とりあえず集まって協力しよう」
言いました。

この考えは残念ながら、直接採用はされなかったのですが、
ここから150年後の現在。
ヨーロッパはたしかにこの考えを取り入れているのです。

世界最強のアメリカと、躍進するアジア諸国に対抗するために、
EUという形で!



【しかし現実は】

というわけで、ハプスブルクは多民族で行こうとしたのですが、
残念ながらハンガリーが言う事を聞きませんでした。

実は、プロイセンと戦う前に、ハンガリーは一度独立しているのです。
コシュートの指導のもと、ナショナリズムが強まっていたからです。
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結局そのときはロシアとの戦争で負けてオーストリア傘下に戻るのですが、
1867年、オーストリア帝国内部で、事実上の自治を勝ち取ります。

これ以降、オーストリア帝国は
オーストリア=ハンガリー帝国と名前を変えます。

これはアウスグライヒという政策です。
日本語に訳すると「妥協」です。

しかし、ハンガリーを認めたことで、ケチが始まります。

まずボヘミアのチェコ人が怒ります。
「ハンガリーはいいのかよ。じゃあ俺たちはどうなのよ」

ポーランドやウクライナ、スロヴァキアも、
「名前とかは対等にしなくていいから、せめて公平にやってくれ」
と言い出します。

これにはハプスブルク家は悩みに悩みました。
f0075557_050266.jpg
どうすりゃいいんだよ


オーストリア=ハンガリー政府はそれでも、可能な限り妥協します。
実際、オーストリア=ハンガリー=ボヘミア三重帝国にまで
なりそうになりました。議会の反対でギリギリなりませんでしたが。

アウスグライヒ体制下の憲法や官僚制度、軍事制度、教育などをみると、
この当時の「何が何でも公平に。でも現実は厳しいね」
という苦難が、ありありとわかります。



それでは今日はここまで。ハンガリーの町並みを見ながらのお別れです。
ごきげんよう。
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# by neo_logic | 2008-09-20 00:51 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】番外編
<今回の記事はレイアウトの性質上、フォントサイズ「中」を推奨します>


【はじめに】

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      どうも、適当に始まってだらだら続いている、
      『ハプスブルクとヨーロッパ』の時間だぜ。
      お相手はあなたの宿敵、霧雨魔理沙



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幻想郷で3、4番目程度に博覧強記を自負する、
アリス・マーガトロイドでお送りします。
・・・・・もうちょっとマシな挨拶思いつかなかったの?


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私は普通だぜ。えーと、今回は番外編ということで、
学校教育の分野からははずれるけど、19世紀の海事技術のお話だ。
船に興味が無くて、東方も知らんって方は、読まなくても損はしないぜ。



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むしろ、どうして始めたのかのほうが知りたいわ・・・
たぶん、これ読んでる人の2割8分6厘も知らないわよ、東方project。
しかもこの画像オタクっぽいし。ヒンシュク買わないかしら。



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     一回だけ、会話形式でやってみたかったんだとさ。
     で、画像が集めやすかったから東方で、だそうだ。




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なんとも安直な理由ね・・・





【帆船から蒸気船へ】

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     さて、早速始めるか。
     本編のほうは普墺戦争(1866年)までいったわけだが、
     これ以前の建造技術はどんな感じだったんだ?




f0075557_19351613.jpgそうね、基本的に、大航海時代、って呼ばれていた
15世紀から17世紀半ば(1400年~1650年くらい)までの
ヨーロッパでは、地中海ではガレー船(手漕ぎ船)、
外洋では帆船(帆掛け船)が主流だったわ。
それ以降、急激な発達は少なかったわね。


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  無敵艦隊戦争のあたりで、そんな話が出てたな。
  産業革命が起こるまでは、漕ぐか帆を使うかしかないからなあ。



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でも、1783年にフランス人のクロード・ダバンが本格的な蒸気船を作った。
そして1807年になると、アメリカの発明家、ロバート・フルトン
ハドソン川での実用化に成功したわ。


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                     スクリューはまだ無いんだよな?



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そうね、外側に水車みたいな車をつけて水をかく、「外輪船」よ。
スクリュー・プロペラの発明は1836年になるわ。


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       あれ、でも、日本に来たペリーの黒船(1853年来航)も
       外輪船だったぜ。横にくっついてるのが外輪だよな。
       年代が合わないぜ?


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【ペリーの黒船(レプリカ)】


f0075557_19351613.jpg推移期間があるのよ。
外輪船とスクリュー船のどっちが速いかを完全に決着付けたのは、
英国海軍が1845年にやったデモンストレーション。
だけど、そのころには、まだまだ現役の外輪船がたくさんあったの。



f0075557_19333212.jpg

じゃあひょっとして、同時期には帆船なんかもまだあったのか?



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あったわ。1850年の船舶総トン数だと、まだ帆船が9割。
蒸気船は1割しかなかったの。



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なるほどねえ。技術が生まれたからって、
すぐに全部入れ替わるわけじゃあないんだな。
じゃあ、19世紀の戦争でも、帆船を使ったことはあったのかな。


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そうね。1840年の阿片戦争では、中国の帆船(ジャンク)が
英国の蒸気船と戦っているわ。もちろん中国のボロ負けで。



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【阿片戦争。帆がついているのが中国のジャンク】


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        見た目だけだと、ジャンクの方が格好いいんだけどな。






【装甲艦とは?】

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さて、次は19世紀の軍事的な造船技術の話ね。
この時代は、装甲艦が増えていったってことが特徴的ね。



f0075557_1935533.jpg   鉄で覆った軍艦だな。
   実用は1859年にフランス海軍が進水させたラ・グロワールが
   最初だって言われているぜ。

   蒸気船の登場と重なり合ってるのは、蒸気機関がないと
   動かせなかったからかな?



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ところが、それは世界中に普及した方の装甲艦の話なの。
歴史的には、その200年以上前にも、
装甲艦を使っていた国があるのよ。



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                            ヨーロッパで?




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それがなんと、日本で。1576年の話ね。
織田信長が九鬼嘉隆に建造をさせた鉄甲船には、
大型の軍艦に、鉄板を張って使われた記録があるわ。




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【信長の鉄甲船】


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                    ひええ、さすが戦国時代だぜ。




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もちろん、それがヨーロッパに伝わったわけじゃないから、
技術的には隔絶してるけどね。





【海戦とオーストリア】

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  じゃあ、19世紀のハプスブルク家はどんな船を持ってたんだ?
  といっても、当時でもオーストリアはほとんど海に面してないし、
  船なんてほとんどなさそうだよな。



f0075557_1948013.jpg

実は、普墺戦争では海戦があったのよ。




f0075557_19333212.jpg
えっ? だって、あれはプロイセンとオーストリアの戦争だぜ?
どっちも大陸の国じゃないか。
陸戦で全部決着がついたんじゃないのか?


f0075557_19351613.jpg
プロイセンにはイタリアが同盟していたの。
だから、イタリア対オーストリアの海戦があったのよ。
アドリア海(現在のイタリアとクロアチアの間)のリッサ沖海戦ね。



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        イタリアとオーストリアか・・・
        どっちも戦争じゃロクに勝てない国どうしだなぁ。




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リッサ沖海戦は、ヨーロッパ最弱をかけての決戦よね。
もっともオーストリアもイタリアも、戦争で弱いのは
基本的に多民族国家だからなのよ。

              
              日本やプロイセンみたいに、統一性が高い国と違って、
              違う言葉でしゃべる人が軍の中にたくさんいたの。

              実際、小隊単位の戦闘だと必ずしも弱いわけじゃないわ。
              単に、国家として戦争する意識が薄いのよ。


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                  ずいぶん弁護するんだな?




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いや・・・単に判官びいきというか・・・






【変わった形の艦首】

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ところで、この船の先端を見てくれるかしら?
リッサ海戦では、オーストリア艦の先は全部
こんな形をしていたのよ。



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【当事の船の先端部】


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          ・・・・なんだかとんがってるなあ?
          私が見たヤマトの先端とはずいぶん違うぜ?


f0075557_19351613.jpg

これ?



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f0075557_1931491.jpg
         違う。
ていうかそれ黒歴史だ。私が言ってるのは、もっと先が丸いヤツだ。




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これは球状艦首っていう形ね。水面以下が球形になっているのは、
造波抵抗を打ち消すためよ。最も燃費の良い形とされているわ。





f0075557_19302567.jpg
まあ、宇宙戦艦ヤマトは空飛ぶからどうでもいいんだけどね・・・
戦艦大和の話ね。





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この時代には、波の抵抗について、研究が進んでいなかったのか?




f0075557_19351613.jpg
いいえ、この先端部には別の使い道があったのよ。
それが次に紹介する、リッサ沖海戦で示されるわ。





【リッサ海戦開幕】

f0075557_1935533.jpg

よし、じゃあ、ヨーロッパ最弱決定戦の話を聞こうか。





f0075557_19351613.jpg
両軍の戦力比較を先にやるわね。
まずオーストリアよ。




艦隊司令官 ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ少将
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装甲艦   7
非装甲艦  19
全砲門数  532
船員数   7871


f0075557_1935533.jpg

          こっちがイタリアだぜ。ちなみに両国ともスクリュー船だ。





艦隊司令官 カルロ・ペルサーノ大将
f0075557_21123147.jpg

装甲艦   12
非装甲艦  33
全砲門数  641
船員数   10886


f0075557_19351613.jpg
イタリアはリッサ島を攻略していた。
そこに救援に来たのがオーストリア艦隊だったってわけね。




f0075557_19333212.jpgでも、オーストリアは装甲艦が少ないぜ?
しかもイタリアは最新式大砲を備えているけど、
オーストリア艦は時代遅れの前装式(弾を前から込める)大砲が
ほとんどみたいだぜ。すぐに負けそうだ。


f0075557_1948013.jpg
ところが、そうはならないのよね。
1866年7月20日。両者決戦よ。




f0075557_20534610.jpg

【イタリア艦に突っ込むオーストリア艦】


f0075557_1931491.jpg

       どわああっ?




f0075557_19351613.jpg

これがオーストリアの取った体当たり戦術よ。



             11時20分、オーストリア装甲艦「フェルディナント・マックス」は
             イタリア装甲艦の「レ・ディタリア」に体当たりしてこれを撃沈。

             さらに木造艦の「カイザー」も
             イタリア装甲艦「レ・ディ・ポルトガロ」に体当たり。
             装甲を削り取ったわ。それが上の絵ね。

             カイザーは装甲艦「アフォンダトーレ」の砲撃を受けて炎上。
             それでも砲撃を続け、イタリア海軍を恐怖させた。


f0075557_19333212.jpg
         最初から体当たりで行くつもりだったのか?
         じゃあまさか、あの船の先端部って・・・




f0075557_1948013.jpgそうよ。あの船首のでっぱり(衝角)は、ぶつけて沈没させるためのもの。
この海戦は、衝角戦術が有効に決まった、歴史上最後の戦いなのよ。

戦意が薄いイタリア艦隊相手なら、
技術と物量で劣っていても、覚悟と根性で勝てる確信があったのね。

             リッサ海戦は結局、オーストリア側の大勝利。

             帰国したテゲトフ少将は英雄扱いされて、
             「鉄の心持つ木の艦隊は、木の心持つ鉄の艦隊より強し」
             と称えられたわ。


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   こんなに度胸があるなら、そのくらいは言われてもいいな。








【終わりに】

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今回は19世紀の海事技術と、それを背景に、
オーストリアとイタリアが戦ったリッサ沖海戦について語りました。




f0075557_1931491.jpg

       さんざん技術の話をしておいて、
       最後にまるで無関係な根性論だったな。



f0075557_19351613.jpg

いえいえ、この海戦は、後世の海事技術に大きな影響を与えるのよ。





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   え? そんな影響力のありそうな話じゃなかったぜ?




f0075557_19302567.jpg実は・・・この海戦で、『装甲艦には衝角戦術が有効だぜ!』っていう間違った教訓が世界中に知れ渡ったの。
そのせいで、20世紀始めまで世界中の軍艦に衝角がついてたのよ。

第一次大戦を戦った英国戦艦ドレッドノートにも
ばっちり用意されていたわ。前進も回旋も遅くなるのに・・・



f0075557_1931491.jpg   なるほど。
   まあ、ヨーロッパ最弱を誇るオーストリアとイタリアの海戦が
   ばらまく教訓なんて、そんなもんだろうな・・・
   海戦はパワーじゃないみたいだぜ。



(おしまい)
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# by neo_logic | 2008-09-16 20:19 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第11回
そろそろマンネリ化してきたことなど、微塵も気にしないシリーズ
「ハプスブルクとヨーロッパ」、今回はメッテルニヒについてお届けします。



【再建しなくちゃ】

ナポレオンにぼろくそに踏みにじられたハプスブルクですが、
それもロシアの活躍(というよりナポレオンの自爆)で、
もとどおりになりました。

ここで頭角をあらわしてくるのが、オーストリア帝国宰相「メッテルニヒ」です。
f0075557_21551721.jpg
クレメンス・メッテルニヒ
(1773- 1859)

彼はヨーロッパの平和会議を開き、これからの方針を決めることにしました。

これがウィーン会議(1814-1815)です。
200以上の国から領主や国王が集まりました。
イギリス・フランス・プロイセン・ロシア・デンマーク・・・・

ハプスブルク家は一気に大赤字になりましたが、
国の景気が良くなったので帳消し。
メッテルニヒはこういう外交と金勘定が得意な人物だったのです。

ところが、世界最初の大規模国際会議では・・・
f0075557_22203238.jpg
「会議とかいいから、とりあえず遊ぼうぜ」


各国代表は、朝はフェスティバル、昼は狩猟、美術鑑賞、観劇、夜はパレード、舞踏会、コンサート。もっと夜になると大人の時間(笑)。

誰が敵で誰が味方かはっきりしないから、根回しをやる時間を稼いでいたのですが、会議は伸びに伸びさっぱり話がまとまらない。

有名な「会議は踊る」ってやつです。

そのときです!!

      オーストリア
     メッテルニヒ
f0075557_22311290.jpg




















   ロシア        プロイセン    イギリス   フランス
アレクサンドル1世  ウィルヘルム3世 カルスレー  タレーラン
f0075557_22322240.jpg








な、なんだってー!!
↑ここでこれを使わず、いつ使う。

あわてて各国は調印。
連合軍は必死に戦い、ワーテルローの戦いでなんとか勝利します。

これ以降、メッテルニヒの外交が実り、ヨーロッパは30年間の平和を
手に入れるのですが・・・

しかし、この均衡はあくまで大国のためのものであり、
これらの属国などは、この後長く搾取を受け続けるわけです。
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【ナポレオン以降のウィーン体制。強国がまとまっていく】




【ウィーン革命まで】

ここから先、メッテルニヒのオーストリアは、警察国家の時代になりました。
言論弾圧、管理主義。ぐっと昔に戻そう、みたいな発想があったのです。

マリア・テレジアとその息子たちによって情熱をもってなされた改革は、
メッテルニヒ体制のもとで、完全に保守化してしまいました。

この時代は「ビーダーマイア」と呼ばれます。

ビーダーマイアさんは小説の登場人物なんですが、
愚直で、俗物、自主性の無い小市民という、ともかく面白くない人。

シンプルな家具を置いた居心地のいい家で、家族と団欒する、という、
そういう生活がよしとされました。

ナポレオン時代の作曲家といえば、重厚・荘厳なベートーベンですが、
ビーダーマイア時代の作曲家といえば、落ち着きのあるシューベルトです。

またこのころ、ウィンナ・ワルツも隆盛を誇りました。
あの毎年、正月にやってるヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」とかです。

たぶんほとんどの人が知ってるんじゃないかな。

下はビーダーマイア時代の典型的な詩と絵です。

   人生の過ごし方

   いつか君に許される時が来たら、そういう境遇を作ってみ給え、
   君にとって人生とは一つの散歩に他ならないようにするのだ。
   あちこち眺め、あれこれ集め、ちょっとばかりワインを飲み、
   途中でいろんな気のきいた知り合いも作り、
   晩方には澄み切った気持ちでふたたび自分に帰り、
   そうして、天国へ、広々とした天国へ、眠りながら入って行く。
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どちらもシュピッツヴェーグ作。オーストリアの隣国バイエルンの人です。
こういう、なんというか、退廃的~な雰囲気だったんですな。


【ウィーン革命】

1830年になると、オーストリアでもイギリスとかよりちょっと遅れて
産業革命が始まります。工場が登場し、造船技術なども発達しました。
いよいよ近代の幕開けです。

その中でも継続していたメッテルニヒ体制ですが、
隣国フランスで1848年に2月革命が起きると、その余波で、
ウィーンの学生と労働者もいっせいに蜂起しました。

ところが、この革命で労働者たちが熱心に襲撃したのは、王宮ではなく、工場でした。
自分たちの仕事を奪う機械を壊しにかかったのです。

学生は学生で、ほとんど無目的に暴れているだけ。
知ってることしか学校で習わないので、ストレスがたまっていたようです。

・・・・・革命なのか、それは。

議会までたどり着いた一団は、何をすればよいのかよくわからず、ぼーっとしています。
気まずい雰囲気が漂ってきたとき、ようやく誰かが演説を始めました。
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なんだか気の毒になってきた議員たちも
「わかった、わかった」的なムードで、要求を認めます。

むしろ王家のほうがよろこんだ。ガチガチ保守派のメッテルニヒが
キライだったみたいです。メッテルニヒは失脚し、ロンドンへ亡命します。

しかし、これに続くハンガリー・チェコでも差別的待遇を受けていた市民が蜂起。
ハプスブルク家は軍隊を出し、勝ったり負けたりの戦いが続きます。

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何がきっかけになるかわからんもんですな。
この中、イタリアがほとんどドサクサ紛れに独立(1861年)
オーストリア・フランス連合軍は統一イタリアに敗北します。



【大ドイツか? 小ドイツか?】

さて、この革命闘争が一段落したころ、
「そろそろいいかげんドイツをまとめないか」という
動きが出てきます。

なんせ神聖ローマが倒れてから、あそこらへんはもうごった煮状態。
となると、そのトップに誰がなるか。これはもう二択です。

ハプスブルク家・オーストリアか?

ホーエンツォレルン家・プロイセンか?


オーストリアはウィーンを首都とした超多民族国家「大ドイツ主義」を主張します。
プロイセンはオーストリア抜きの「小ドイツ主義」を主張します。

マリア・テレジアの時以来の確執に決着をつけるときが来ました。
普墺戦争の始まりです。1866年。

プロイセンのトップは、無く子も黙る鉄血宰相ビスマルク。
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オットー・フォン・ビスマルク
1815年 – 1898年


ここでちょっと、ビスマルクの思想を紹介しましょう。

常備軍と官僚の完成形を作ったと評価されるビスマルクですが、
彼の功績はむしろ、以下のような外交方針にありました。

・強国、フランスとロシアとオーストリアとに、絶対挟み撃ちされてはならない。

以前、強国フランスがオーストリアとスペインにはさまれたときに、
ボコボコにされた、という話を覚えているでしょうか。

イギリスを除くヨーロッパでは、ともかく「はさまれない」ことが重要です。
逆に「はさむ」ことで勝利が近づくのです。

オセロみたいなもんだ。
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それ、オセロじゃねえよ・・・





うるせえな。

さて、それでは、プロイセンが、フランスとロシアに挟まれないためには?
大ドイツ主義では、絶対に警戒されます。

ただでさえ強いプロイセンに、豊かなオーストリアまでついてしまっては、
ロシアとフランスは絶対に手を組むでしょう。

かといって、オーストリアがフランスやロシアと結びついてもまずい。
ここは、オーストリアを徹底的にやっつけ、
その後すばやくフランス・ロシアの対策を練る。

つまり!
プロシアはこのオーストリア戦に全てをかける!


これがビスマルクの思想です。

ビスマルクには自信がありました。その理由は・・・

1.金属製薬莢と無煙火薬の開発によって、撃針銃と呼ばれる
  後装式小銃を用意した。これはオーストリアの銃の三倍の速度で射撃ができる。
2.名将モルトケに指揮を任せた。彼はデンマーク戦で活躍しており、
  鉄道と電信というニュー・テクノロジーを使える、先進的な将軍です。

今も昔も技術のドイツです。

こんなの相手にして勝ち目はない。
ただでさえ、大して強くないオーストリア帝国は、
ケーニヒグレーツの戦いでさんざんに敗北してしまいました。

プロイセンの死者9000に対して、オーストリアは44000人が殺されたのです。

こうして小ドイツ主義は完成、さらにプロイセンはフランスとの戦争(普仏戦争)にも勝利。
神聖ローマ帝国(第1帝国)に次ぐドイツ帝国(第2帝国)を作りました。

オーストリアの大ドイツ主義の完敗です。
しかし、よく負けるよなぁ、この国。

ともかく、メッテルニヒが構想していた
・オーストリアは再び、ドイツ諸国の指導者に戻る。
・フランス・オーストリア・ロシアという三すくみ状態に戻す。

というもくろみは、これで完全に消えうせてしまいました。

強大なフランス・ロシアに加えて、ドイツ・イタリアという国まで生まれ、
多民族国家オーストリアには、新たな方針が必要になったのです。


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次回はちょっと休憩を兼ねて、海事技術の話だぜ。
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# by neo_logic | 2008-09-14 21:55 | ハプスブルクとヨーロッパ
【ハプスブルクとヨーロッパ】第10回
ところで、どうもハプスブルではなく、ハプスブルのほうが、
多く使われているようです。ドイツ語では"g"で終わると"ク"って発音するらしい。

そんなわけで、今回からハプスブルクと記述します。
もちろん今までのは面倒だから直しません。



【ベルサイユにて】

前回、プロイセンを恐れたオーストリアとフランスが同盟したって話をしました。
このため、ブルボン家とオーストリア家は縁組をします。

マリア・テレジアの末娘がフランスのルイ16世に嫁いだわけですね。
この末娘がマリー・アントワネットです。

「貧乏人は麦を食え」と言った人ですね。
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そうだった。ありがとう仙道。

「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」
と言った人ですね。まあ、本当に言ったかはあやしいらしいですが。

フランス宮廷では、これまで敵だったオーストリアから嫁が来るとのことで、
「オーストリア女」
とか呼ばれて妬まれたりもしたそうです。

アントワネットがベルサイユ宮殿に入ってからのロマンスやゴシップは
無尽蔵にあるのですが、オーストリアとは直接の関係がないので省略。

ここらへんをあつかったフィクションなら、言うまでもなく、
宝塚歌劇団で有名な「ベルサイユのばら」がありますね。
池田理代子大先生のマンガも傑作です。
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・・・なんで塗り絵なんだ。

ちなみに、最近ベルサイユのばらブランドの化粧品が出ました。
まつげが三倍くらいにのびるそうです。

女性のかた、積極的に買って使って私に写真を送ってください。
魔よけかなにかに使いますので。



【動乱の時代へ】

マリア・テレジアの時代に、オーストリアは一気に近代化が進みました。
彼女の息子兄弟も負けずに改革を進めます。

このころになると、「貴族が威張っているだけでは国は成り立たない」
みんなが気がつき始めていました。

そこでオーストリアとプロイセンは、フランスの思想家である
モンテスキューヴォルテールから、いろんなことを勉強していました。

オーストリア:(。-`ω-)ウーン「どうすれば強い国が作れるだろう?」
プロイセン:(´-ω-`;)ゞムムム…「どうすれば国が豊かになるのかな?」


ところが皮肉なことに、肝心のフランスでは、
アンシャン・レジームと言って、古い体制が残っていました。
貴族と神官は、金持ってるくせに税金払わなくていいのです。

フランス: (*´∇`)σゲラゲラ「俺が楽しけりゃどーでもえーわ」

フランスの民衆は、ベルサイユでバカ騒ぎしている王家を憎みます。
そして・・・・
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フランス革命が起きるのです。1789年。

バチですね。いや、バツだな。

ルイ16世もアントワネットも、あわれギロチンで処刑されてしまいます。

余談ですが、日本の大学で最も深く研究された世界史のテーマは、
フランス革命だそうです。
だから日本の教科書には、フランス革命がやたら丁寧に書いてあるのです。




【大天才あらわる】

さて、このフランス革命にびっくりした周辺諸国は、いっせいに手を組みます。
これが対仏大同盟です。

仲の悪いハプスブルグ家・オーストリアとホーエンツォレルン家・プロイセンも、
とりあえずこの一大事には手を組みます。

ところが、このフランス革命軍に、ヨーロッパで最も有名な男があらわれます。

いわずもがな。ナポレオンです。
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ナポレオン・ボナパルト
1769-1821


諸国はいっせいにフランスへ軍隊を向けますが、
イギリスもオーストリアもロシアもプロイセンもスウェーデンも
ポルトガルもオスマン帝国もサルデーニャ王国も教皇領も、
大天才ナポレオンには手も足も出ません。


逆にナポレオンが侵略を開始します。
そしてハプスブルグ家オーストリアも、ついにウィーンを取られてしまうのです。

オスマントルコにも、スウェーデンにも、プロイセンにも
取られなかったウィーンを!!
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神聖ローマ帝国は、このナポレオンによって名実ともに完全解体。
800年の歴史に幕を閉じます。

これ以降、オーストリアは「神聖ローマ帝国」ではなく「オーストリア帝国」と
名前を変えてしまいます。

ナポレオンは1804年に皇帝になります。
下の地図のうち、色がついているのがナポレオンに降伏した国。
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ほとんどヨーロッパ全部じゃねぇか。

ところが、この天才ナポレオンは調子に乗ってロシアを攻めますが、
「寒い」
という理由で負けてしまいます。そう、ロシアは寒い。
フランスの薄い靴や服では、凍傷を防げなかったのです。

ちなみに、ここから数えて150年後。
ヒットラーもほとんど同じ理由でロシアに負けます。

ともかく、オーストリアもプロイセンもイギリスも、
これを聞いて大喜び。

「やっちまえ」
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このドラえもん、異状に怖いんですけど。

てなわけで1813年。
ライプツィヒの諸国民戦争でこんどはあべこべにパリが陥落。
ナポレオンは島流し。ブルボン家が復活しました。



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「今回はここまでだ。次回はメッテルニヒの話だ。
あと、俺がガンダムだ」

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# by neo_logic | 2008-09-13 11:25 | ハプスブルクとヨーロッパ